流星群 7


 弁慶は、整理された小屋の中を見回した。つい先日までは足の踏み場もないほどに薬草や道具が板間に広げられていたが、今はそれらはきれいに片付けられている。必要な薬作りも旅の支度も終わり、あとはただ京へ向けて出発するのみというところだ。だが弁慶はなかなか熊野を離れられずにいた。発つのは明日でもいいのではないか、もう一日だけここにと、だらだらと出発を先延ばしにしてしまっている。
(まったく僕も、愚かしいな)
 離れがたいのは、『熊野』という土地ではない。たったひとりの少女なのだと、弁慶自身分かっている。望美から離れなければならないと思い、予定より早く京に帰ることを決めたというのに、それでもまだここにいるのだ。これが愚かでなくて、何だというのだろう。
 熊野と京はそう遠いというわけではないにしろ、気軽に顔を出せるという距離ではない。ヒノエや烏は距離も気にせずあちこちに気軽に出向いているが、弁慶はそうはいかない。京に帰ってしまえば、望美に会うことは難しくなるだろう。
 だが、もう二度と会えないわけではない。同じ世界にいるのだから、会おうと思えば、会うことは可能だ。それで、十分ではないか。それ以上、何を望むというのか。
(僕は)
 不意に近づいてくる気配を感じて、弁慶の思考はさえぎられる。先日のように、望美が来たのかと一瞬思ったが、違うことはすぐに分かった。
「弁慶殿!」
 烏の一人が小屋に駆け込んできた。走ってきたのだろう、息が乱れている。
「どうしました?」
 冷静に答えながらも、弁慶は緊張に気を引き締めていた。烏が駆け込んでくるなど、只事ではない。何かあったに違いないのだ。
 烏は軽く頭を下げ弁慶に礼をとりながらも、今はそれどころではないという様子で勢い込んで言った。
「申し訳ありません、今すぐ頭領の邸までおいでください。望美様が賊に襲われ怪我を負われたのです」
「望美さんが!?」
 告げられた言葉に、弁慶は目を見張る。
「はい。さいわい命に別状はないと思うのですが、腕に負った傷が存外深いのです」
「わかりました、すぐ用意します」
 弁慶は手早く薬の中から止血効果のある薬草や、化膿止めを取り出す。たぶん怪我は刀傷なのだろうが、万が一、刃に毒が塗られていた場合のことも考えて、いくつかの解毒薬も取り出す。こういう場合、落ち着いて冷静に対処することが大切だ。慌てたところでいいことなどひとつもない。冷静になろうと思うのに、あせりと不安に薬草を持つ手がわずかに震えた。落ち着けと自分に言い聞かせる。
 烏は、望美の命に別状はないと言った。その言葉に嘘はないだろう。彼らが傷の具合を見誤るとは思わない。烏は熊野の間諜としてだけでなく、時には兵として戦うこともある。そのために、一通りの怪我の対処法も学ぶし、訓練や実践の中で怪我に対する目も養われている。
 だがそれでも、安心はできなかった。人など簡単に死んでしまうのだ。一見傷は浅いように見えてもそこから菌が入り込んでしまうこともあるし、刀傷に気をとられて打撲による内臓の損傷に気づけないということもある。そんなふうにして戦場で死んでいく者を弁慶は何人も見た。望美がそうでないと、どうして言い切れるだろう。
(望美さん)
 彼女の姿が、弁慶の脳裏に思い浮かぶ。もしも彼女がこの世界から消えてしまったら、どうすればいいのだろう。
 必要と思う薬草と治療道具を揃えると、弁慶はそれらを抱えて別当の邸を目指して駆け出した。弁慶の小屋と湛快の邸は近いが、ヒノエの邸まではわずかに距離がある。その距離がもどかしかった。熊野の山道では馬も使えない。ただひたすら弁慶は走った。
「弁慶殿! お待ちしておりました」
 邸が見えてくると、門の前で待っていた女房がすぐに弁慶を中へ招きいれた。薬師である弁慶が来たことに、女房の顔に安堵の色が浮かぶ。だが逆に、その顔に弁慶は不安を掻き立てられた。そんなに薬師を必要とするほどに望美の傷は深いのだろうか。
 走ったせいで額から流れてくる汗をぬぐうこともせずに、弁慶は望美がいる部屋へ急いだ。
「望美さん!」
 礼もとらずに、弁慶は望美の部屋へと入る。部屋には望美の他に、ヒノエと敦盛、そして心配そうな顔をしている何人かの女房たちがいた。
「弁慶さん」
 駆け込んできた弁慶に驚いたように、望美が弁慶のほうへ顔を向けた。
 一見、彼女はいつもと変わらぬ様子で部屋の中央に座っていた。烏が言っていたとおり、そうひどい傷ではないらしい。そのことにまず安心する。
 だが望美は袖を肩までまくりあげ、左の二の腕に白い布を巻いていた。一応の応急処置だろう。その布に血がにじんでいた。
「弁慶、望美の傷を診てやってくれ」
 ヒノエが弁慶を促す。それにちいさくうなずいた。
「大丈夫ですか。傷を診せてください」
 弁慶は望美の傍に来て膝を付きながら、血のにじむ布を巻いた腕をとった。痛みにちいさく望美が顔をゆがめる。できる限り傷に響かないよう慎重に布をはずせば、まだ血をあふれさせる傷口が現れた。浅い傷ではない。
 もしほんの少し刃が逸れていたら、それは彼女の心臓を切り裂いていたのかもしれない。そう考えたらぞっとした。もしかしたら望美は、死んでいたかもしれないのだ。
(────)
 震えそうになる腕を押し隠しながら、弁慶は傷をふさぐための軟膏を取り出し、望美の傷に塗りこめた。
「っ……」
 痛みに望美が体をこわばらせるのが分かった。それでも彼女は声を押し殺して、悲鳴ひとつあげない。傷の具合からみて、相当の痛みがあるはずなのに。傍で心配そうに様子を見守っているヒノエや敦盛や女房たちに心配をかけないようにだろう。だがそうやって、悲鳴ひとつあげずに痛みをこらえる姿のほうが、見ていてつらいこともあるのだと、彼女に教えてやりたかった。
 できる限り痛みを長引かせないよう、弁慶は傷の様子を見ながら手早く薬を塗り、その上に布を当てきつく縛った。あとは傷口から悪い菌が入らないよう気をつけながら、自然に傷がふさがるのを待つしかない。病気ならともかく、怪我では弁慶にできることはこれくらいしかなかった。
 望美の腕の傷は、弁慶が心配したように刃に毒が塗られていたということもなく、命に関わるものでもなかった。小さな擦り傷や切り傷はいくらかあったが、腕以外に大きな怪我もない。しばらくはあまり腕に負担をかけないようにしていれば、ひと月もすれば傷は癒えるだろう。
「これからしばらく、こちらの腕はあまり動かさないようにしてください。できれば固定して、動かないようにしておいたほうがいいのですが……」
「そこまでしなくて大丈夫ですよ。みんな、大げさなんだから」
 大丈夫だと示すように、笑いながら腕を振ってみせようとする望美を、弁慶はその手を掴んでとめた。そのまま彼女の手を両手で包み込む。ちいさな手だ。弁慶が両手で包めば、すっぽりと隠れてしまう。
「望美さん。そうやってひとりで抱え込んでしまわないでください」
「弁慶さん……」
 賊に襲われたとき敦盛が一緒だったと聞いたが、望美は敦盛の陰に隠れているだけではなかっただろう。きっと彼女も勇敢に敵に立ち向かったはずだ。だが襲われて、殺されかけて怖くないわけがないのだ。そして、怪我をしてもその痛みをこらえて笑ってみせようとする。
『もうひとりで苦しまないで。これからは、ずっと一緒だから』
 いつか告げた言葉を、告げられた言葉を、望美も弁慶も覚えてはいない。
 それでも望美の瞳から、涙が一粒こぼれ落ちた。
「望美さん」
「あ、あれ? なんだろ、なんか急に」
 強がろうとする望美を裏切るように、その瞳からはぼろぼろと雫がこぼれていく。傷のせいではないだろう。彼女は傷が痛くて泣いているのではない。
 弁慶は望美を自分の胸元に引き寄せた。
「もう大丈夫ですよ。よくがんばりましたね」
「弁慶さん……」
 子供のように弁慶の着物にしがみつく望美の髪を撫でてやる。
 ヒノエと敦盛が見ているのも、驚いた顔で女房たちが見ていることも分かっていたけれど、弁慶は望美を離すことができなかった。



 腕の傷自体は治療も済ませ大事はないが、怪我をしたことで今夜熱を出すかもしれないということで、望美には薬湯を飲ませて早めに休ませた。望美には女房たちと敦盛が付いている。一緒にいたのに彼女に怪我をさせてしまったことに、敦盛はだいぶ自分を責めているようだった。
 望美のことは彼らに任せ、弁慶は別室でヒノエに事の詳細を聞いていた。
 敦盛と望美が本宮近くの沢にいるときに、賊が襲ってきたのだという。山を見回っていた烏が騒ぎに気づいてすぐに仲間とともに援護に駆けつけ、賊は一人残らず捕らえたとヒノエは言った。
 今回の賊は、熊野に敵対する勢力などではなく、自分の娘を熊野別当に嫁がせて権力の一端を手に入れたいと願う馬鹿な貴族の差し金だったらしい。自分の娘を熊野別当に嫁がせるためには望美の存在が邪魔で、殺そうとしたらしい。あまりに浅はかなその考えに、弁慶もあきれてしまう。
 敵対勢力なら熊野で動きを監視しているため、もし動けばすぐにヒノエまで話が伝わり対処できるはずだった。だが、思いもかけぬところが思いもよらぬ行動に出たため、事前に気づくことができなかったのだ。
 馬鹿な貴族に金で雇われた野武士崩れは、見た目はたおやかな貴族風で虫も殺せぬように見える敦盛と望美が一緒にいるところを見て、今が好機とばかりに狙ってきたのだろう。だが、彼らの予想に反して敦盛は武芸に長けていた。また、望美自身も勇敢に戦ったらしい。
「望美を襲おうとした奴等は、全員捕らえて、今子細を吐かせてる。そのあとは、死んだほうがマシな目に合わせてやるさ」
「そうですか」
 おそらくヒノエは、望美を傷つけようとした奴等を決して許さないだろう。実行者も、首謀者も。まさしく言葉どおり『死んだほうがマシ』な目に合わせてやるだろう。弁慶はそれを止めようとも、かわいそうとも思わない。むしろ当然のことだと思う。もしヒノエがやらないなら、弁慶がやっていただろう。
 彼らはそれだけのことをしたのだ。望美を傷つけようとした。
 ──いや、ヒノエにとっては、その賊も弁慶も、同じかもしれない。彼から、望美を引き離したいと考えていることは、同じなのだから。もしかしたらそれが、望美を傷つけることになるとしても。
(どうして僕は)
 どうして手放せるなどと思えたのだろう。そんなことは、不可能なのに。
 きっとヒノエは望美をしあわせにすることができるだろう。そう分かっていても、弁慶は望美を手放せない。たとえヒノエや熊野の人々に恨まれることになっても。
 思い知ってしまった。望美を失うかもしれないと思ったときに、望美がひとりで痛みに耐えようとしているのをみたときに。
 湛快は言った。どんなことになろうとも、責めたりしないと。兄には分かっていたのだろうか。弁慶が望美に惹かれると。
 弁慶は、向かいに座るヒノエを見た。
「……俺に、言いたいことがあるんだろう?」
「ええ」
 弁慶にとって、兄の湛快とその妻、そして彼らの子供であるヒノエは特別な存在だ。
 鬼に似た髪の色や、跡目争いを避けることを理由に、幼いうちに弁慶は熊野を出され比叡に預けられた。本当の理由や真意があったにせよなかったにせよ、それは『捨てられた』のと同義だった。それゆえ、今は亡き両親は、弁慶にとって近しい存在ではなかった。両親が存命中も、仲睦まじい親子として接した記憶などない。
 だが、湛快は何かと弟である弁慶を気にかけ、親しく接してくれた。源氏から嫁いで来た彼の妻も、彼らの間に生まれたヒノエも、同じように弁慶に親しく接してくれた。弁慶にとって家族といえるような相手は彼らだけだ。
 その彼らを裏切ることになっても、彼らに恨まれることになっても、それでも。

「望美さんを、僕にください」


 To be continued.

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