流星群 8


 空には満月にすこし足りない月が輝いていた。完全な円でなくとも暗い夜に光を落とし、木々を淡く照らし出している。そして月の光にわずかに消されつつも、いくつもの星が瞬いていた。夏よりも冬のほうが星がきれいに見えると教えてくれたのは誰だったろう。けれど、これだけの星が見えるのなら、季節は関係ない気がした。
 望美は自分の部屋から庭先へと出て、ひとり空を眺めていた。ずっと傍に控えていてくれた女房と敦盛には、もう眠るからと言って、部屋から出てもらっていた。みんな望美を心配しつつも、ひとりになりたいという彼女の意思を尊重して部屋を出てくれた。
 着物の上からそっと腕の傷に触れる。わずかに痛むけれど、そうひどくはない。ヒノエたちは傷のせいで熱が出ることを心配していたけれど、今のところ、その気配もない。無理をしなければ、ひと月としないうちに治るだろう。
 賊と対峙したとき、油断したわけではないけれど、他の刺客に気を取られて振り下ろされる刀に気付くのが遅れてしまった。とっさに避けたけれど避けきれず、腕に太刀を受けてしまった。
 その瞬間の恐怖を思い出し、望美は着物をきつく握り締めた。
 切り付けられ痛みを感じた瞬間、死を身近に感じた。穏やかな熊野にいて忘れかけていたけれど、この世界はそういう世界なのだと不意に思い出した。本物の刀が身近にあって、それが人に向けて振るわれることが有り得る場所なのだ。
 運良く刃は腕を掠めただけだったけれど、もしもほんのすこし避け損なっていたなら、気付くのが遅れていたら、どうなっていただろう。望美は心臓を切り裂かれていたかもしれない。首を切り裂かれていたかもしれない。
 そう思ったとき、望美の胸に思い浮かんだのは、ただひとりだった。
(弁慶さん)
 何故なのかなんて分からない。それでもそのとき思い浮かんだのはヒノエではなく、ヒノエの叔父として数回会っただけの彼だった。
(──私は)
 今まで気付かなかったんじゃない。気付かないようにしていたのだ。自分の気持ちから、目をそらしていた。裏切るのが、怖かったから。熊野の人たちも、女房たちも、望美とヒノエの婚姻を望んでいる。おそらくは、ヒノエ自身も。彼らの期待や願いを、裏切るのが怖かった。
 記憶がなく行くあてのない望美を、今、熊野の人々は受け入れてくれている。そうなる以前、みんなに疎まれ続けていたとき、望美は居場所がなくてとてもとてもつらかった。彼らの期待を裏切って、また前のような状況になることが怖かった。
 そして、ヒノエは、望美にとって大切な人だ。記憶も行くあてもない望美に優しくしてくれた。彼がいなかったら、望美はまともに生きていけなかった。心細いときいつだって支えてくれた。守ってくれた。ここにいればいいと言ってくれた。その腕と言葉に、何度助けられただろう。何度支えられただろう。そんなヒノエを、傷つけることが怖かった。
 きっと、こんな気持ちなど封印してヒノエの気持ちを受け入れれば、望美はしあわせになれるのだろう。みんなも祝福してくれる。そう分かっているのに、それでも願ってしまうのは。
(星が、流れたらいいのに)
 望美は空を見上げる。数え切れない星たちを、正しく星座につなぐことはできない。流れ星が願いをかなえるなんて迷信だと、望美だって分かっているけれど。
「望美」
 不意に呼ばれて、望美は小さく肩を震わせた。振り向けば、いつの間にかヒノエが傍に来ていた。
「怪我は大丈夫なのか? 寝てなくて平気か?」
「ありがとう。大丈夫だよ。ちょっと、星が見たくて」
「星?」
 望美に促されるようにヒノエも空を見上げる。
「うん……。あのね、流れ星──ヨバイボシにお願い事をすると、叶うんだよ」
「ふうん。望美は、何か願い事があるのかい?」
「……」
 望美はヒノエの視線を避けるようにうつむいた。願いを、ヒノエには言えなかった。それはきっと彼を傷つける。
「星なんかに祈ったって、何も変わらないよ」
 ヒノエは望美の傍らに来ると、そっと彼女の肩を抱いた。ちいさな子供をあやすように、ヒノエの腕が優しく望美を包む。ヒノエの腕は優しい。いつだってそうだ。望美を支えるばかりで、何かを強制することはない。
「願い事があるなら、俺に言いなよ。姫君の願いなら、何だって叶えてやるから」
 わずかに憂いを含むような、望美に言い聞かせるような声音に、彼は気づいているのだと悟って、望美はわずかに体を硬くした。
(ヒノエ、くん)
 聡い彼は、気づいているのだろう。望美の気持ちなどとっくに見抜いて、それでも優しく包んでくれているのだ。望美の瞳から、涙がこぼれた。
「私……」
 震える声を、振り絞った。心を偽ることも、裏切りだ。ヒノエには、ちゃんと告げなければいけない。
「弁慶さんが好きなの……」
 いつ、どうして、なんて分からない。それでも望美は弁慶に惹かれていた。傍にいたいと、離れたくないと願ってしまう。それがヒノエを傷つけることになっても、熊野の人たちを裏切ることになっても。
 望美を抱きしめたまま、ヒノエがちいさく笑った気配がした。抱きしめる腕の力が、ほんの少し、強くなる。
「知ってたよ。ずっと前から、分かってた」
「ヒノエ君……?」
 つぶやかれた言葉の意味を、望美は理解できない。それでも、ヒノエの優しさだけが、痛むくらいに身に染みた。
「ごめんね、ヒノエ君……」
「悪いのは俺だよ」
 ヒノエは泣く彼女をあやすようにその髪を撫でる。
「お前も、弁慶も、何ひとつ悪くない。悪いのは俺なんだ。俺が──」
 途切れたその言葉の先を、望美は聞き取れなかった。
 やがて、ヒノエはそっと望美を抱きしめていた腕を放した。望美が顔を上げると、困ったように笑っているヒノエと目が合う。
「さ、弁慶のところに行ってやれ。手加減しないで殴ったから、今ごろ顔が倍に膨れてるんじゃないか?」
「殴った!?」
 ヒノエの言葉に、望美は目を見開く。
「『望美さんを僕にください』だと。謀が得意だとか言ってるくせに、あいつ、普通に俺に言うんだぜ。謀なしの真っ向勝負じゃねえか。あのときと同じで、笑っちまったよ」
「あのとき……?」
 わずかに首をかしげる望美に、ヒノエは何も言わない。その代わりに、彼女の背を押した。
「ほら、行けよ。おまえのいる場所は、ここじゃないんだろ」
「ありがとう、ヒノエ君」
 背を押された勢いそのままに、望美は駆け出していた。振り返らずに、まっすぐに駆け出していた。



 弁慶がどこにいると教えられたわけではないのに、望美は無意識に邸を飛び出していた。まるで何かに導かれるように、弁慶の小屋へと続く道を駆けてゆく。月が道を照らしてくれるから、迷うことはない。
 しばらく走ると、前方に見知った後姿を見つけた。月に照らされ、淡い色彩を放つ長い髪は、見間違えることなどない。
「弁慶さん!」
「望美さん……?」
 彼女が来たことに驚いた顔をしながら弁慶が振り向いた。望美は弁慶の傍らまで来て足を止める。荒い息を整えるように、何度か大きく息をする。ヒノエが言っていたとおり、月明かりに照らされた弁慶の頬は赤く腫れ上がっていた。端正な顔が歪んでいる。くちびるの端に血も滲んで、痛々しい。
「望美さん、どうしてこんなところに……。怪我は大丈夫なんですか、ちゃんと安静にして寝ていないと」
「ヒノエ君が」
 言いかけて、望美は言葉をとめる。ヒノエはきっかけを与えてくれたけれど、ここへ来たのは望美の意思だ。それ以外、何もない。
「……私、弁慶さんに、会いたかったんです」
 望美はまっすぐに弁慶を見つめ、そう告げた。その言葉に弁慶は驚いたように軽く目を見開く。けれどすぐに目を細めてゆるく微笑んだ。
「僕も、君に会いたいと思っていたんですよ。ナガレボシに願いが通じたかな?」
 その言葉を否定するように、望美は首を振る。
 望美もほんの数刻前までそう思っていた。星が流れたらいいと。それに願いをと。けれど、違うのだ。
『星なんかに祈ったって、何にも変わらないよ』
 そう言ったのはヒノエだ。そうして、望美の背中を押してくれた。だから望美は今ここにいる。望美が、星に祈るだけなら、きっと何も変わりはしなかった。何かを変えるのは、願いを叶えるのは、星などではないのだ。
「星は、星です。願いなんて、叶えてくれません」
 大切なものがあるなら、守りたいものがあるなら、戦わなければいけない。誰かを傷つけるとしても、自分が傷付くとしても。それは、よく知っていたはずなのに。
 望美はもう一度、まっすぐに弁慶を見みつめた。欲しいものがあるなら、願うことがあるなら、自分で手を伸ばすしかない。
「弁慶さん。私は、記憶がなくて、行くところもなくて、ヒノエ君に助けられました。ヒノエ君がいなかったら、多分私は、ひどいことになっていたと思います。女房さんたちも、他の熊野の人たちも、みんな親切にしてくれて……。みんなが、私とヒノエ君の結婚を望んでいることも知っています。でも、私は」
「望美さん」
 彼女の言葉を、弁慶はやわらかく遮る。
「その先は、僕に言わせていただけませんか?」
 弁慶は望美の手をとった。その手のあたたかさを、懐かしいと感じる。以前にもそうして、手を握られたことがあるような気がする。すべては気のせいなのかもしれないけれど。
「望美さん、君が好きです。どうか、僕と一緒に生きてくれませんか」
「はい、私も、弁慶さんと一緒に生きていきたい」
 答えながら、涙があふれた。弁慶が望美を引き寄せてきつく抱きしめる。弁慶の胸元に顔をうずめ、強く抱き返しながら、望美は思った。
(やっと、たどり着いた)
 多分、ここが、望美のいる場所なのだ。そこにやっと、帰りつけたのだ。間違うことなく、ちゃんと、ここへ。
 星がひとつ、流れて落ちる。
 けれどそれに弁慶も望美も気づかなかった。


 To be continued.

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