眠る四葩のその足元に 2



 繰り返される時間の中で、そっとそっと育まれてゆく想い。
 それは、あの春の京で、音もなくそっと桜の花びらが降り積もってゆくように。
 泣きながらなじったこともあった。血にまみれたその手に怯えたこともあった。
 それでも、その胸に秘められた哀しい決意に、涙がこぼれた。

(それが、あなたの言っていた、あなたの罪なんですね)

 贖罪だから仕方ないと笑って、一度は消えてしまったひと。
 裏切り者の汚名を被ってまで、自分の命を賭してまで、京を守ろうとした、誰よりも誰よりも優しいひと。

(ずっと、ひとりで苦しんできたんですね。でも、もうこれ以上、苦しまないで)

 守りたいと思った。この哀しいくらいに優しいひとを。苦しいくらい愛しいひとを。
 守れるなら、私は。

 ────だから、私は。




 清盛を滅し、黒龍を応龍へと戻した厳島の地で、弁慶は望美の手を取った。
 まさか、自分が生き残れるとは思っていなかった。実際、弁慶の知らない未来では、弁慶は死んだのだという。だがその未来は書き換わった。ひとりの少女の強い想いによって。
 異世界から召還された、白龍の神子。はじめは、怨霊を封印できるその能力や、源氏の旗印としての利用価値しか見ていなかったのに、共に過ごすうちに、いつのまにか彼女は弁慶の中に入り込んでいた。何度諭しても弁慶に近づいてきて、時にはその非情さをなじったり、そうしておきながらその判断を下さざるを得なかった弁慶を想って泣いたりしていた。いつからだろう、何を犠牲にしてもと思いながらも、彼女だけは傷付けたくないと思うようになったのは。
 今までは、弁慶は自分の死を覚悟していたから、望美との未来を望むべくもなかった。ただ、自分の死後は、望んでいたとおりに自分の世界へと帰り、しあわせに暮らして欲しいと思っていただけだった。だが今は違う。弁慶はここに生きていて、その上で清盛を滅し、龍神を復活させることができた。存在しないと思っていた『未来』が、目の前にあるのだ。そう思ったとき、弁慶は望美の手を取って乞うていた。
「望美さん……僕は、君とこの京を見守っていきたい。どうか、ここに残って、僕と共に生きてくれませんか」
 龍神が元の力を取り戻した今、望美が望めば、すぐに元の世界への道が開かれてしまうだろう。弁慶は望美を失いたくなかった。共に生きて欲しかった。
 そして、自惚れではなく、望美も弁慶を想っていると分かっていた。そうでなければ、いくら龍神の神子とはいえ、時空を越えるなどという無謀なことも、危険と分かっていながら清盛の贄になるふりなもできはしないだろう。それだけでなく、いつだって彼女の見つめる瞳や言動の端々に、弁慶への想いがあふれていた。
 だからきっと、望美はその手を握り返してくれるのだと、弁慶は思っていた。
 そう、思っていた。
「弁慶さん……私、は……」
「望美さん?」
 哀しそうに眉根を寄せた少女は、顔を伏せて弁慶から視線をそらせた。
「私、は、……弁慶さんと一緒には、いられません。ごめんなさい……、もとの世界に、帰りたいんです……」
「……!!」
 拒絶されるとは思っていなかった弁慶は、望美の言葉に息を呑んだ。あの花のような笑顔を返してくれるとばかり、思っていたのに。いつもいつも、望美は弁慶の考えつかない行動をする。だが、最後の最後、こんなところで予想を裏切られるとは思っていなかった。
「君は──、……っ」
 あふれそうになる言葉を必死で飲み込んで、弁慶はゆっくりと握っていた望美の手を離した。
 それは、責めるべきことではない。望美には望美の想いがある。たとえ弁慶のことを好いていたとしても、彼女にとってここは異世界だ。帰るべき場所はここではない。愛しい家族も友人も、むこうの世界にいる。帰りたいと思うのは当然のことだ。ここに残って欲しいというのは弁慶のわがままでしかない。弁慶がこの京を守りたいと思うように、望美が生まれ育った世界を捨てられなくても仕方のないことだ。
 弁慶は黒衣で顔を隠すように、望美に背を向けた。これ以上彼女を見ているのはつらかった。
「……どうか、早く帰ってください。僕が君をこの世界に留めるためのはかりごとをめぐらせてしまう前に」
「弁慶さんっ……!!」
 泣きそうな望美の声が追いすがったけれど、弁慶は振り向かなかった。
 京に残る弁慶と、もとの世界へ帰る望美と。もう道は分かたれたのだ。決して、交わることはない。どんなに想っても、もう無駄なのだ。
「さようなら、僕が傷つけることをためらった、唯一のひと」
「────っ!」
 望美が泣いていることに気付いたけれど、弁慶はそのまま彼女を置いて、船に向かった。
 彼女はきっと、ヒノエや譲あたりが慰めてくれるだろう。そしてもとの世界に帰ったら、その哀しみもやがては忘れてしまうだろう。それだけの、ことだ。
 結局、その場でも望美がもとの世界に帰ろうと思えば出来たのだろうが、朔やその他の仲間との別れを惜しんだり、戦の事後処理などの関係から、いったん京に戻ってからもとの世界に帰ることになった。
 厳島から京へ、そして京でも数日を過ごしたのちに、神泉苑から望美と譲はもとの世界へ帰って行ったのだという。そのあいだ弁慶はろくに望美と顔を合わすこともせず、見送りにも行かなかったので、あとからその話を九郎に聞いただけだ。
 そして今、龍神の加護を受け復興していく京の片隅で、弁慶は薬師として過ごしている。忙しいけれど、充実した日々だ。京の町はいたるところに戦の爪痕があるものの、だんだんと以前のような活気を取り戻しつつある。町に暮らす人々の顔にも、明るさが戻ってきている。それを眺めるのは、弁慶にとって至福だ。自分の愚かさによって龍神を殺してしまった罪から、解放されてゆく。
(ああ……)
 いつかのように、五条大橋から京を眺めながら、弁慶はしあわせだと想った。
 しあわせだ。愛しいと想った少女が傍らにいなくても、こんなにも、しあわせだ。
 望美のことを思い出すたび、今はまだわずかに胸が軋むけれど、それでも、やがてきっとそれも忘れてしまうだろう。彼女が弁慶を忘れてしまうのと同じように。──それでいいのだ。
 弁慶は、そう、思っていた。


 To be continued.

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