眠る四葩のその足元に 3


 ヒノエが爪を噛んでいる。それを見て、敦盛はちいさく溜息をついた。それは苛立ったときの彼の癖だ。幼い頃はよく見かけたが、幼い仕草を本人が嫌ってその癖を直したはずだった。それでも本当に苛立ったときにはそれが出てしまう。つまり、ヒノエが爪を噛むのは、それほどに苛立っているとき、ということだ。
「ヒノエ、爪」
 本人も無意識のうちに噛んでしまっていたのだろう。敦盛に指摘されて、ヒノエは自分が爪を噛んでいたことに気付くとちいさく舌打ちをした。
 頭領がこの調子では、熊野水軍の者たちは大変だろう。八つ当たりされるというわけではないだろうが、指揮官が他のことに気を取られているのでは下の者は動きづらいに違いない。一緒にいるだけの敦盛だって、ヒノエの苛つきが伝わってきて、こうして居心地の悪い思いをしている。
 平家との戦後、敦盛の身柄は熊野の預かりになっている。怨霊であるはずの身は、何故か、黒龍の逆鱗が砕かれ他のすべての怨霊が消えた今でも、こうしてこの世に存在している。それが、三種の神器の力によるものなのか、八葉としての力によるものなのか、敦盛本人にも分からない。けれど、事実こうして敦盛はここにいるのだ。
 源氏軍に与していたとはいえ、敦盛は血筋的に平家の中核をなす人物と言っていい。本来なら鎌倉に送られて詮議にかけられるところだ。だが彼を仲間と思う九郎と景時の配慮により、鎌倉に送られることなく熊野に送られた。表向きは、怨霊である敦盛は清盛と共に消えてしまった、ということになっているらしい。
 幼い時期を過ごした熊野は、敦盛にとってもうひとつの故郷のようなものだ。怨霊の身で、霊山である熊野に身を寄せるのはあつかましいとは思うが、このかりそめの命が消える日まで、幼馴染であり熊野別当でもあるヒノエを助け、熊野のために働けたらいいと思っていた。
 だが、その肝心の熊野別当は、ここ最近ずっとこんな調子だ。
 戦が終わり、戦の事後処理に寝る間もないほど追われていたときは、さすがに他のことを考える余裕もなかったのかそんなこともなかったのだが、それが一段落し幾ばくかの時間が出来た途端、ずっと何かを考え苛立っている。
(まあ……ヒノエの気持ちも、分からなくはないのだが)
 ヒノエが何を思い、何に苛立っているのか、敦盛にも分かっている。弁慶と、望美のことだろう。
 世の女性に対して常に甘い言葉を囁いているようなヒノエだが、白龍の神子である望美に対しては実はかなり本気だったことを知っている。敦盛も彼ほど強い想いではなかったにせよ、彼女にほのかに惹かれていた。だがその望美は、彼らではなく、いつだって弁慶を見つめていた。それを寂しく思ったこともあるが、それでも彼女がしあわせならそれでいいと、敦盛は思っていた。
 謀略や秘められた真意に振り回されてずいぶん遠回りをしたようではあるが、清盛を倒し龍神を復活させたのち、望美と弁慶は結ばれるのだとばかり思っていた。軍師である弁慶の心のうちを読むことなど敦盛には到底出来ないが、それでも、弁慶も望美に惹かれていることくらいは分かっていた。厳島で、弁慶が望美の手を取り愛を乞うたとき、彼女はそれに笑顔で応えるのだろうと──かすかに痛む胸を抱えながら敦盛はそれを遠くから見守っていた。そのとき隣にいたヒノエも、同じ気持ちだっただろう。
 だが、彼女の答えは──。
 それについて、望美を責めることは出来ない。家族のいるもとの世界に帰りたいと、そう望むのは当然のことだ。家族を強く想う気持ちは、敦盛には痛いほどよく分かる。ここに残ると言えなかった彼女を、どうして責めることが出来ようか。そして望美はもとの世界へと帰っていった。
 だがその結末に、ヒノエは納得できないのだろう。
 ヒノエは、はっきり口にこそ出さないが、年の近いあの叔父に一目置いている。尊敬している、と言ってもいいだろう。彼が生まれて初めて本気で惹かれた少女に関しても、その相手があの男なら、ということで納得して身を引いていたように思う。それなのに、ヒノエが諦めた甲斐もなく、結局ふたりが結ばれることはなかった。それに苛立っているのだろう。
「ヒノエ」
 敦盛は、すこし居住いを正してヒノエに向き合った。望美がもとの世界に帰って、すでに数ヶ月経つ。いつまでもそんな調子では、熊野別当としての勤めも果たせないだろう。ヒノエの思いも分かるが、すでに神子はいない。どこかで気持ちにけじめをつけなければいけない。
「ヒノエの気持ちも分かるが、弁慶殿と神子のことは、彼らの問題だ。神子がもとの世界に帰りたいと望むことも」
「そんなんじゃない」
 敦盛の言葉を、ヒノエは強い調子でさえぎった。
「ヒノエ……?」
「……別に、望美が弁慶を振ってもとの世界に帰りたいって言ったことが不満なんじゃない。それが神子姫の本当の願いだっていうならそれでいい。もとの世界に帰って、しあわせでいるというなら」
 苛立つように、ヒノエは自分のその赤い髪をかきまぜる。
 敦盛には、ヒノエが何を言いたいのか分からない。
「ヒノエは、神子がもとの世界でしあわせではないと思っているのか?」
「……そもそも望美は、本当に、『もとの世界に帰った』のか?」
「え?」
 ヒノエの思いがけない言葉に、敦盛は目を見開いた。彼は何を言っているのだろう。望美は、もとの世界へ帰ったはずだ。弁慶にもそう言って、この世界に残ることを拒んだ。彼女が譲と共にもとの世界に帰る日、京の梶原邸で、別れの言葉を交わした。神子である少女は敦盛の手を強く握り、最後まで怨霊である敦盛のことを心配してくれていた。ヒノエだって、その場にいて、望美と別れの挨拶をしたではないか。
「よく考えてみろよ、敦盛。姫君と別れたのは京邸だ。そのあと神泉苑に向かってそこからもとの世界へ帰ったはずだが、それは誰も見てないんだ」
「あ……」
 たしかに望美と譲がもとの世界へ帰るその瞬間は誰も見ていない。別れがたくなるから、という理由で、見送りを望美が断ったのだ。だが、そうだとしても、望美がもとの世界へ帰っていないなどということがありえるだろうか。
「確かに、それはヒノエの言うとおりだが──。だが、それだけで神子がもとの世界に帰っていないと決め付けるのは無理ではないか?」
 敦盛は彼女が帰った日のことをできるかぎり詳細に思い出しながら、そして様々な可能性を考えながら言った。
 望美の姿を最後に見たのは京邸だ。その先のことは分からない。だが京邸から神泉苑までの短い距離のあいだに何かあったとは考えにくい。龍神の加護の戻った京で、神子である望美にもし何かあったなら、すぐに八葉である敦盛やヒノエにも分かっただろう。だがそんなことはなかった。
 彼女の意志で、もとの世界に戻らなかったのだとしたら──まず、そんなことをする理由がわからない。想い人である弁慶を振って、皆にもとの世界に帰ると思わせておいて、それでもなお京に残る理由などあるだろうか。たとえば何らかの理由で、望美が、弁慶とは共にいたくないけれど、この世界には残りたいということであったとしても、みんな歓迎し、彼女がここで暮らすための手筈を整えただろう。
 そしてもうひとつ。もしも彼女がまだこの世界にいるのなら、今どこにいるのだろう。京にも他の主だった都にも、熊野の烏がいる。もしもどこかに望美がいるというのなら、その情報が入ってきてもおかしくないはずだ。だがそんな情報はまるでない。
「そんなことは俺だって分かってるよ。だけど」
 ヒノエはわずかに目を伏せて、どこか遠くを見つめていた。
「俺には、どうしても信じられないんだ。望美が、あいつを振って、もとの世界に帰ったってことが。──違和感、っていうか。……自分でも、上手く説明できねえんだけど」
 自分でも上手く説明できないその違和感に苛立っているのだろう。ヒノエはまた自分の髪をぐしゃぐしゃとかきまぜた。もともと癖が強くあちこちに跳ねている髪が、更に乱れる。
 敦盛以上に望美を想い、彼女を見つめてきたヒノエだ。彼はまわりが思う以上に、ずっと望美を気にかけ見守っていた。その彼にしか分からないこともあるだろう。
「ヒノエ……」
 敦盛がヒノエに何か声をかけようとしたとき、ヒノエは勢いよく立ち上がった。
「決めた! 俺はちょっと京まで行ってくる!」
「え!? 今からか!?」
 突然のヒノエの言葉に敦盛は驚く。
 京と鎌倉ほどの距離ではなくとも、京と熊野はそこそこ離れている。ちょっとそこまでと気軽に行って来られるような距離ではない。もともと身軽であちこちに行くヒノエだが、いささか急すぎる。
「別当としての仕事はどうするんだ」
「急ぎの仕事はないし、どうしても必要なものはオヤジが代わりにやっときゃいいさ」
 ヒノエは旅支度をすることもなく今すぐに出発するつもりのようで、いつもの白い上着を肩にかけると部屋を出て行った。ああいうときのヒノエは、止めても無駄だということはよく分かっている。
「────」
 ほんの一瞬、敦盛は迷う。だが次の瞬間には心を決めて、敦盛も部屋を飛び出していた。
「待てヒノエ! 私も京へ行く!」
 表向き消えたことになっている敦盛が堂々と京の町を歩くのはあまりよいことではないだろう。けれど、このまま熊野でじっとしていることは出来なかった。
 望美が実はもとの世界に帰っていないなどと、信じたわけではない。でも、敦盛も心のどこかで違和感を感じていた。それをきちんと確かめたかった。真実を知りたかった。──それがどんな結果になるとしても。


 To be continued.

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