眠る四葩のその足元に 4


 あれは……屋島に向かう船の中だった。ヒノエは望美に訊いたことがあった。怖くはないか、と。
 これから先が戦の正念場だ。敵も追い詰められ、三草山や福原以上の戦いになるだろう。今までの敵はなんとか倒せても、これから対峙するであろう強敵──還内府や清盛は、それらとは比べ物にならない。それは望美も分かっているだろう。だからヒノエは尋ねたのだ。決戦を前にして、怖くはないか、と。
 怖くないわけがないと、分かっていての問いだった。実際そのときだって、望美は何かを考えるようにひとり船の甲板に立っていた。その船のへりを掴む両手は、かすかに震えていた。
 神子としての望美を、試したかったのかもしれない。表立った協力はしていないものの、源氏方に与している熊野別当として、この戦の勝敗を握るであろう白龍の神子の決意を、試したのだ。
 その問いに、望美はくちびるを引き結ぶようにしてまっすぐにヒノエを見つめてきた。
「怖くないって言ったら嘘になるけど……でも、私は、もう決めたから。戦うって、それで必ずみんな無事に帰るんだって」
 戦で『みんな無事に』と願うのは無謀なことだろうとは思ったけれど、彼女の決意の強さはその瞳から十分に伝わってきた。守られて、きれいに部屋に飾られているだけの、お人形さんとは違う。強い意志を秘め、その細い両足でそれでも前に進もうとする姿を、美しいと思った。
 望美はもともと、龍神などとはまったく関係なく、こことは違う世界で平穏に暮らしていたのだという。それが、ある日突然、無理矢理この世界に連れてこられたのだという。つまり、なんらかの『神子』としての資質が備わっていたにせよ、彼女はただの十代半ばの少女でしかないのだ。
 戦も知らずに過ごしてきた少女が突然異世界の殺し合いに巻き込まれたら、普通なら怯え、逃げ出してしまっているだろう。あるいは前線になど立つことはなく、安全な陣の中から命令を飛ばすことくらいだろう。だが望美は違った。ただ守られるだけでなく、みんなを守りたいと言いきり、まっすぐ前へと向かっていく。時には泣いてしまう夜もあるけれど、それでもその瞳は閉じられることなく、またまっすぐに前を見つめる。そんな望美にヒノエは惹かれた。その強さも弱さも、愛しいと思った。そして彼女を守りたいと思った。もちろん望美は簡単に守られるだけの女ではないのだろうけれど。
 ヒノエはからかいや冗談を含ませながらも、望美にその想いを伝えていた。だが、彼女が見つめているのは自分ではないとも、分かっていた。
 今だってそうだ。いつのまにか望美の視線はヒノエから外され、別のほうを見ていた。彼女の視線の先を辿れば──ヒノエ達がいるところとはちょうど反対側にあたるあたりで、船守たちに指示を出している黒い法衣姿。望美は、なにか憂いと強い想いとを込めた瞳で、その男を見つめていた。
「……姫君は、ああいう優男が好みかい? あんな胡散臭い信用ならない坊主より、俺のほうがいい男だと思うけどね」
「やだヒノエ君、私は、別にそんな」
 ヒノエのからかうような言葉に頬を染めて必死に否定する様は、逆に肯定しているようなものだった。色事に慣れていない初々しいその姿に苦笑する。
「もう、ヒノエ君からかわないで!」
 頬を膨らませる彼女は、『神子』ではなく、年相応のかわいらしさだった。だが、急に彼女は笑みを消して真面目な顔をして言ったのだ。
「──それにね。弁慶さんは、胡散臭くなんかないよ。私は弁慶さんを、信じているから」
 そう言い切った望美を、ヒノエはすこし驚いた気持ちで見つめた。
 身内であるヒノエですら、完全に弁慶を信じているとは言いがたい。彼が悪い人間ではないと分かっているが、何か目的を果たすために、それ以外を容赦なく切り捨てることができる男だ。弁慶のそんな性質が、自分に害を及ぼさないとも敵対しないとも言い切れない。もしヒノエや熊野の存在が、弁慶の何らかの策略の邪魔になるのなら、あの男は容赦なくそれを潰そうとするだろう。そういう意味も含めて、何を考えているか読めない叔父を、心から信用することは出来なかった。
 それなのに、この少女は、弁慶を信じていると言い切るのだ。恋する者の愚かな盲目さではなく、本当の意味で、信用しているのだろう。それは彼女の表情から分かった。だが、何故そこまであの男を信じることができるのか、ヒノエには分からなかった。
 そして、のちに彼女は、信じていると言ったその言葉を、そのとおり実践してみせた。
 行宮で弁慶が源氏軍を裏切ったとき。人質にされた望美は、人質にした張本人である弁慶ですら驚くほどに落ち着いていた。おびえることも取り乱すことも、裏切り者の弁慶をなじることすらなく──まるで逆に、弁慶を守るように。
(私は弁慶さんを、信じているから)
 弁慶に連れ去られる望美を見つめながら、ヒノエは、その彼女の言葉を思い出していた。
 そして、彼女が信じたとおりに、弁慶が源氏軍を裏切ったのではないと──味方さえ欺く彼の計画を知らされたときに、思ったのだ。かなわない、と。
 弁慶と望美の、その絆の深さを見せ付けられた気がした。
 望美が好きだった。生まれて初めて、本気で惹かれた相手だった。できるなら、無理に奪ってでも手に入れたかった。でも、どんなことをしても、望美を手に入れることは出来ないだろう。その絆に、敵わない。この想いは、叶わない。それでも、望美がしあわせであるなら、それでいい。悔しいけれど、あの叔父なら。
 いくら策略とはいえ、彼女を危険な目に合わせたあの男を一発くらいぶん殴って、そのあとは祝福してやろうと思っていた。
(それなのに、望美は)
 ヒノエには信じられなかった。望美が弁慶を置いてもとの世界に帰ったということが。
 自分の生まれ故郷が愛しいのは、誰だってそうだろう。それは分かる。けれど、彼女の想いは、ふたりの絆は、それを凌駕するくらいにもっと深いものだったはずだ。生まれ育った世界を──家族や友人を、すべて失うことになったとしても、それでもと思うくらいのものだったはずだ。自分の命を危険にさらすようなことになっても、弁慶を信じ続けた彼女のあの想いは。
 胸にあふれる違和感。振られたくせに諦めきれない負け犬の感傷などではない。何か──何かを見落としている。
(本当に、望美は帰ったのか?)
 もしそうだとしても、何か理由があったとしか思えない。もとの世界が恋しいなどという理由ではなく、そうするだけの──そうしなければならなかった何か別の理由が。それを知ることもなく、いつしか日々の中に望美の記憶を風化させていくことなんて、出来やしない。
 そしてヒノエのその考えは、間違ってなどいなかったのだ。



「────なんだよ、これは…………」
 ヒノエは言葉を失う。目の前の光景が信じられずに、けれどそれはまぎれもない現実だ。背後にいる敦盛も、同じように、驚愕に言葉を失っているようだった。
 望美の手がかりを探して、まずは彼女が最後に来たであろう京の神泉苑へとやってきて、そこで見つけたその光景は。
「なんなんだよこれは!! なんでこんな!!」
 握り締めた拳が震える。怒りに任せて、自分の腿のあたりにある水面を叩きつける。
 どうしてもっと早く気付かなかったのだろう。どうして誰も気付けなかったのだろう。こんなことになっていると。
「──行くぞ敦盛」
 不意にヒノエはきびすを返して歩き出した。
「ヒノエ、何処へ……」
「決まってる! あいつのところだ!」
 どうしてこんなことになっているのか、ヒノエにも敦盛にも、詳しい事情は何ひとつ分からない。それでも今、一番に伝えなければならない相手は弁慶だ。この現実を知らなければならないのは弁慶だ。この光景を見せ付けて、何も気付けなかった愚かな叔父を殴りつけなければ気がすまない。──いや違う。愚かなのはヒノエも同じだ。何も気付けずにいたのは、彼も同じことだ。何かおかしいと、ずっと違和感を感じていたのに。
 ヒノエは進みかけた足を止めて、一度振り向いた。くちびるを噛み締める。
(望美、おまえは)
 彼女が何を思っていたのか、何を考えていたのか、今はまだ分からない。それでもそれはおそらく、みんなを守りたいと言った、あの言葉に関係するのだろう。どうして気付けなかったのだろう。そう言った彼女の決意の強さを、知っていたのに。後悔ばかりが胸を襲う。
 けれどヒノエはまたすぐに歩き出す。今は何より弁慶のもとへ行くことが先決だった。敦盛もその後を追う。



 二人が去り、静けさを取り戻した神泉苑で。
 望美は眠っていた。水晶の中に閉じ込められて。


 To be continued.

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