眠る四葩のその足元に 5


 厳島から京へ帰り、望美がもとの世界へ帰るまでのあいだ、弁慶はずっと望美を避けていた。
 戦の事後処理で忙しいということもあったけれど、話をする時間も機会も、本当はいくらでもあった。実際、望美は何度か弁慶と話をしようと、接触を試みてきた。けれど弁慶はそれをことごとく潰して、ろくに彼女と顔をあわせることすらしなかった。望美が、弁慶の告白を断ったことを知っている仲間たちは、彼のそんな態度について何も言うことはなかった。
 告白の時、はかりごとがどうこうと言っておきながら、実際のところ弁慶は望美を引き止めるはかりごとをする気などなかった。無理だとわかっていたからだ。彼女には龍神の加護がついており、復活した龍神の力を持ってすれば、愚かな人間のはかりごとなど到底敵わないだろう。あるいは、また龍脈に呪詛でもかけて、龍神を滅すれば可能かもしれないが──さすがにそれは出来なかった。
 いや、本当は違う。龍神がどうだということではない。弁慶は、自分が考えていたほど望美に想われていなかったことが悔しかったのだ。自分の乞いにうなずいてくれるとばかり思っていたのに、そうではなかったことが腹立たしかったのだ。そんなのは彼が勝手に思い込んで決め付けていただけで、彼女は悪くないというのに、弁慶は怒りに任せて望美を無視し続けたのだ。
 だがそんな中で、たった一度だけ、望美と話をする機会があった。弁慶が最後に望美とまともに言葉を交わしたのは、厳島から京へ帰る船の中だった。
 それまでは個人的に望美に手を貸すだけだったヒノエだが、厳島へは熊野水軍を引き連れて来てくれた。だから京へ帰るには熊野の船に乗ることになった。
 水軍が丸々一団いたのだから、船は大量にあったわけだが、好き勝手に乗るわけにはいかない。位に見合った船というのも必要で、源氏の神子姫が一般の歩兵と同じ船に乗るわけにはいかず、望美は当然、大将である九郎や戦奉行の景時と同じ船に乗ることになる。また、弁慶も軍師として京へ着くまでに九郎たちと話し合っておかなければならないことが山のようにあった。必然的に弁慶と望美は同じ船に乗ることになった。
 それでもずっと弁慶は彼女を避けていた。ある程度の広さはあるものの、船の上という限られた空間の中で、できるだけ彼女に近づかないようにしていた。
 そうして、それは、潮と天候がよければ明日明後日には京へ着くだろうという頃の、夜のことだった。
 夜の甲板で、弁慶はひとりぼんやりと星を眺めていた。ほとんどの者はみんな寝静まっている。船を動かすために何人かの船守は起きているが、弁慶のいるほうへは来ることがなく、ひとりきりだった。
 船の上でできる事後処理や話し合いは一段落つき、あとは京に着くのを待つだけだった。京に着いたらまた忙しくなるのだろうが、今は何もすることがない。こんな時間は、むしろ弁慶にとっては苦痛だった。忙しければ何も考えずにいられるのに、こんな時はいろいろなことを考えてしまう。たとえば──望美のことを。
「弁慶さん」
 暗闇から不意に声をかけられても、弁慶は特に驚かなかった。気配には聡い弁慶だ。見えなくても、その気配は感じていた。
「──なんですか、望美さん」
 弁慶からすこし距離を置いて、背後に望美が来ていた。いつも彼女を避けていた弁慶だがこうして話し掛けられて、あからさまに無視するわけにもいかない。
 彼女と話をするのも、こんなに近くにいるのも、本当にひさしぶりのような気がした。実際は、厳島を出てからそう何日も経っているわけではないのに。
「弁慶さん。あの、これを」
 迷いためらうような様子を見せながらも、望美が何かを差し出した。
 今夜は月のない夜だ。船にはいくつかかがり火が灯されているが、ここへはほとんど届いていない。ずっと暗い中にいてだいぶ夜目がきいているとはいえ、彼女が何を持っているのか分からなかった。
「なんですか?」
「髪結い紐です。あんまり上手じゃないんですけど、私が作ったんです」
 言われて、彼女の手をよく見れば、なるほど確かに紐のようなものが乗せられていた。
「弁慶さんが、いつもしあわせであるようにって、祈りながら編みました。もしよければ、受け取ってください」
 弁慶のためであるというそれを、一体いつ作ったのだろう。少なくとも、この船の上ではないだろう。紐を編む材料など用意されていないだろうし、材料があったとしても、この数日で彼女がそれを作り上げられるとも思えない。少なくとも屋島に向かう前──京にいた頃だろうか。
 弁慶はそっと手を伸ばして、少女の手から髪結い紐を受け取った。暗い中であるから色は分からないが、触った感触からしてきっちりと編まれたよい紐のようだった。
「あの、それで、……代わりにというわけではないんですけど、弁慶さんが今髪を結わえているその紐をいただけませんか?」
 望美の言葉に、弁慶は鼻白んだ。
 それは明らかに、別れを前提とした言葉だ。これからもう二度と逢うこともない弁慶の形見として紐が欲しいと、そういうことだ。そう簡単に気持ちの整理がつくわけもなく、弁慶はまだこんなにも望美を想っているというのに、彼女は着々と別れる準備を進めているのだ。
(望美さん、君は)
 口に出かけた言葉を、弁慶は飲み込んだ。何を言っても仕方がない。彼女はどうせ、弁慶よりも故郷を選んで帰っていくのだ。彼女にとって弁慶の存在など、ただそれだけだったということだ。
 何も言うことなく、やや乱暴に弁慶は髪を結んでいる紐を解くと、望美の手にそれを乗せた。
「……ありがとうございます。大事に、しますね」
 望美が大切そうに、渡された紐を、胸元で抱きしめるように握り締めるのが分かった。月のない夜で、だから暗くて、そのときの彼女の表情を見ることは出来なかった。



(……夢)
 弁慶はぼんやりと、寝床から体を起こした。陽の高さから考えて、すでに昼近いだろう。昨夜は夜遅くに急病人が出て、寝たのはすでに明け方だった。いつも何時に診療所をあけると決めているわけでもないし、昨夜遅くに急患騒ぎがあったことはこの界隈の者なら知っているだろうから、そう急いで飛び起きることもない。
 久しぶりに夢を見た。望美の夢だ。すでに懐かしいとも思えるような夢だ。
(望美さん)
 彼女のことを思い出すたび、胸が痛まないといえば嘘になるけれど、今はもうだいぶ落ち着いてきた。復興してゆくこの京で、薬師として人々を助け見守っていくこの暮らしが、弁慶を支えてくれている。
 弁慶は寝床から出て簡単に身支度を整えると、最後に紐を手にとって無造作に髪を結わえた。それは、望美が編んだあの紐だ。明るいところで見ればそれはきれいな鶸萌黄色に染められた紐だった。
 午後から診療所を開こうと、必要な薬草や道具を準備していると、表から騒がしい気配がした。また急患かと一瞬気を張ったが、そうでないことはすぐに分かった。その気配の張本人が、診療所の奥の弁慶の部屋にまで入り込んできたからだ。
 足音も荒く、挨拶をすることもなく、音を立てて障子を開け放ち部屋の中に入ってきたのは、熊野にいるはずの彼の甥とその幼馴染だった。
「めずらしいですね、ヒノエ。君がここに来るなんて。敦盛君も一緒ですか。本当にめずらしい」
 その闖入者を弁慶は見やった。彼らがここに来るなど、本当に珍しいことだった。ヒノエは六波羅の隠れ家にはたびたび出向いているようだが、弁慶のいる五条のほうへは滅多に来ない。敦盛に至っては、熊野から出ることすらめずらしい。その二人がそろってやってくるとは、一体何があったというのだろう。
「何かあったんですか?」
 部屋に入り込んで来たものの、ヒノエも敦盛も何も言わない。ヒノエは何かをこらえるようにうつむいて、敦盛はどう言えばいいのか戸惑ったような顔をしている。
「ヒノエ?」
「あいつは──望美は言ったんだ。あんたのことを信じてるって。なのになんであんたは、望美を信じてやんなかったんだよ!!」
 叫ぶように、ヒノエが弁慶を怒鳴りつけた。その声は震えている。
「何を──言っているんですか?」
「何かを守るために、嘘ついて、みんな騙して、自分ひとりで背負い込もうとする気持ちは、あんたならよく分かるだろ。なのになんで気付いてやれなかったんだよ!!」
 ヒノエの叫びは、なかば泣き声のようだった。彼がそんな声を出すなんて本当にめずらしい。
 何を言われたのか一瞬分からず、弁慶は戸惑う。みんなを騙してひとりで背負い込むというのは、弁慶が源氏を裏切るふりをした時のことを指しているのだろう。それは分かる。だが、何を気付けというのだろう。彼はさっき何と言った? 望美を信じる? それはあのときの弁慶のように、望美が何かを守るために嘘をついてみんなを騙したと? どんな嘘を?

(私、は、……弁慶さんと一緒には、いられません。ごめんなさい……、もとの世界に、帰りたいんです……)

 不意に、そう言ったときの望美の姿が脳裏によみがえった。あのとき彼女はどんな表情をしていただろう。正しく思い出せない。拒絶されたことに衝撃を受けて、それにばかり気を取られて、ちゃんと彼女を見ていなかった。あのとき望美は、どんな顔をしていた?
「望美さんは……どこにいるんです?」
 震える声で、弁慶は尋ねた。
 ヒノエの言葉を考えるなら、望美はこの世界にいるということになる。もとの世界に帰ると嘘をついて、みんなを騙してまで、何かを守るために。
「神泉苑に行ってみろよ。あんたのその目で確かめろ」
 その言葉をすべて聞くより早く、ヒノエも敦盛も突き飛ばすようにして、弁慶は駆け出していた。神泉苑へ向かって。


 To be continued.

 続きを読む