眠る四葩のその足元に 7


 厳島で弁慶が消えてしまう歴史を見たあと、その運命を変えるために八咫鏡の欠片を持って望美が戻ってきたのは、秋の京だった。
 歴史の分岐点がどこでどうなっているのか、望美には分からない。弁慶が消えたあの歴史を変えるために、一体いつまで戻ればいいのか。手元には八咫鏡があるのだから、厳島に連れて行かれるところでもいいのかもしれない。でもそれでは間に合わないかもしれない。かといって、春の京や熊野まで戻る必要はあるだろうか? もういちど弁慶に大輪田泊での哀しい罪を犯させる必要があるだろうか? 悩んだ結果、望美は、屋島へ向かう前の秋の京へ戻ることにしたのだ。
 京では平家の施した呪詛があちらこちらに見られ、望美はそれを八葉と共に浄化して回っていった。
 呪詛を探すために京の町を歩くと、退廃している町の様子が嫌でも伝わってくる。京邸のある六条のあたりは比較的裕福な武士や貴族の屋敷が並んでいるから気付きにくいが、そこをすこし離れれば、荒れた町が広がっていた。
 今年は夏にあまり雨が降らず、秋だというのに作物の収穫はほとんどなく、餓えた人々が多くいた。疫病も蔓延している。戦のためか病のためか、親を亡くした子供の姿もあちこちに見られた。
 同行している弁慶が、その様子を目にするたびにつらそうな顔をしていることに、望美は気付いていた。厳島で、弁慶は京の荒廃は自分のせいだと言った。すべてが弁慶のせいではなく、清盛のせいでもあるのだろうが、それでも弁慶は自分を責め、命を賭けて京を救おうとした。そんな彼は、今の京を見てどれほど胸を痛めているだろう。
(弁慶さん……)
 望美は絶対に弁慶を助けたかった。仕方ないと笑って消えていった姿は、今思い出すだけでも息が出来なくなりそうなほどに胸が痛む。もう絶対にあんな顔はさせたくない。弁慶を守りたかった。
 呪詛を解除して回っている途中、神泉苑で休憩をしたときに、ちょうど白龍とふたりきりになった望美は尋ねてみた。
「ねえ白龍。龍脈を止めている黒龍の逆鱗を壊すことが出来たら、京は元に戻るのよね?」
「うん、私と黒龍が応龍になって、加護が戻るよ。でも、元のように戻るのは、すぐには無理かもしれない……」
「え? なんで?」
 白龍の返答に、望美は驚いた。てっきり、黒龍の逆鱗さえ破壊することができれば、すぐに京はもとのようになると思っていたのだ。
「今の京の気は、穢されてる……。加護が戻ればだんだんと穢れは払われていくけれど、一度穢れた気が元に戻るには、長い時間が必要……」
 たどたどしい白龍の言葉の意味を、望美は考えた。
 各所に呪詛を施されたり、怨霊が大量に放たれたりしているうちに、京に満ちる気が穢されたのだろうか。それとも、龍神がおらず五行が正しく回らないという状態が、京の気を穢れさせたのだろうか。それは分からないものの、すでに京全体が穢れに侵されているのだろう。
 すこし違うかもしれないが、望美達の世界でいう環境破壊に似ているのかもしれない。川の水や空気を汚すのは簡単だが、それを元に戻すのは難しく、長い時間がかかる。白龍の言う京の気の穢れも同じようなものなのかもしれない。
「長い時間って……どれくらい? 何年くらいかかるの?」
 望美の言葉に、白龍はすこし首をかしげて考えるような仕草をした。人とは違う永い時を生きる神にとって、人間の尺度で測ることは難しいのだろう。首をかしげて悩む姿は、幼い姿ならかわいらしかっただろうが、大人の姿ではちぐはぐな印象を受ける。
「幾度も幾度も、年が巡る時間が必要。人の代が替わるくらいに」
「そんな……!」
 思わず望美は声を荒げた。
 人の代が替わるくらいというのは、何十年もの時間を指しているのだろう。確かに、もし気の穢れというものが環境破壊に似たようなものなら、元に戻るためには、何十年何百年という年月が必要だろう。
 ゆっくりと浄化されていくとしても、そのあいだずっと京は穢れたままなのだ。そして、穢れているあいだは、簡単に復興できない。穢れた土地に、作物は上手く育たない。日照りや、洪水なども起こるだろう。疫病も広がる。
(それじゃあ弁慶さんは、ずっと苦しみ続けることになる!)
 たとえ龍神を復活させることが出来たとしても、京がそんなふうに荒れたままだったら、弁慶は心を痛めるだろう。自分の罪だと自分を責め、苦しみ続けるだろう。
 望美の第一の目的は、弁慶の命を守ることだ。前の運命のように、清盛と共に消えてしまったりしないよう、彼を助けることだ。もちろんそれは変わらない。けれど、そのあともずっと苦しみながら生きなければならないなんて、つらすぎる。あんなに苦しみ続けた弁慶を、もうこれ以上苦しませたくない。
(何か方法はないの?)
 不意に望美は思い出した。怨霊が持っている穢れた五行を、白龍の神子は浄化しているのだという。そのために戦い続けると疲れて眠ってしまう望美を、みんなが気遣っていてくれる。
 気というものがどんなものなのか正確に分からないが、五行も気も似たようなものだろう。白龍の神子は五行を浄化できる。──それなら、京の気も浄化できないだろうか。
 望美がそう提案すると、困ったように白龍が眉根を寄せた。
「神子、それは……」
「何、白龍? できるの、できないの? ちゃんと教えて」
 望美の言葉に、白龍はますます困ったような顔をする。それでも、『神』である彼は、嘘をつくことも、言わずにはぐらかすことも出来ないのだろう。
「神子の力で、京の気も浄化出来るよ。でも、京の気は、とってもたくさん……。神子ひとりで浄化するには、多すぎる」
 今だって、怨霊を何体か倒せば、その怨霊が持っていた五行の浄化に力を使い果たして起きていられないほどなのだ。この広い京全体の気──地にも水にも木にもある『気』。それをひとりでどうにかしようとするのは、無謀だろう。
(でも)
 哀しいくらいに優しいあのひとを守りたい。望美の願いはただそれだけだ。
 応龍を復活させたいだけなら、二度目の上書きは必要なかった。あの歴史で、弁慶の命と引き換えに清盛は消え、龍神はよみがえったのだから。そうでありながらも望美が時空を越えたのは、ただひとつ、『弁慶を守る』という目的でしかない。それができないなら、意味はないのだ。
「白龍、お願い。この戦いが終わったら、私が京の気を浄化できるようにして」
 平家の怨霊と戦うことで手一杯な今は、まだ京の浄化まですることはできない。それに第一の目的はまずこれからの戦いで弁慶の命を救うことだ。けれどそのあとは、京の浄化をしようと決めた。そうしなければ、荒れ続ける京に、弁慶はずっと苦しみ続けることになる。
「でも、そうしたら、神子は……永い眠りにつくことになるよ。浄化しているあいだ、ずっと……。何年かかるか、分からない……。それに、もしも、神子の体が京の穢れに耐えられなかったら、そのときは……」
 本当なら何十年とかかるものを浄化しようというのだ。それと同じ長さの時間はかからないとしても、何年もかかるだろう。それに、いくら龍神に選ばれた神子でも、実際はただの人間だ。京全体の穢れをひとりの人間であがなうことは無理なのかもしれない。
 弁慶のことを思い出す。厳島で消えてしまったときの哀しい笑顔。荒れた京を見つめる哀しげな瞳。望美の願いはただひとつだけ、ただ『あのひとを守りたい』と。だから。
「──それでも、私は」



 戦いが終わったのち、厳島から京へ帰ってきた望美は、京邸で今まで共に戦った仲間と別れを惜しんだあと、譲と共に神泉苑へ来た。将臣は行方知れずのままだが、おそらく彼はこの世界に残るのだろう。
 京邸にはみんなが来てくれた。九郎も敦盛もリズヴァーンもいて、別れの言葉を交わした。でもその場に弁慶は来なかった。
(しかたないか)
 弁慶は真摯な瞳で、望美にここに残って欲しいと言ってくれた。それを手酷く振ったのだ。顔も見たくないと思われても仕方ない。
『どうか、僕と共に生きてくれませんか』
 本当はあのとき、うなずいてしまいたかった。一緒に生きていきたいと言って、その胸に飛び込んでしまいたかった。──でもそれはできなかった。弁慶を守るために、望美にはやらなければならないことがあったから。だから弁慶に嘘をついた。
 神泉苑で、龍神に頼んで時空の扉を開けてもらった。望美と譲、二人の目の前に、空間が切り取られたような光の穴が開く。これをくぐればもとの世界に帰れるはずだった。
「やっと帰れますね、先輩」
 どこか安心したように譲がつぶやく。この幼馴染は戦のあいだもずっと傍にいて、望美を守ってくれた。何かあればすぐに気付いて力になってくれた。それもこれも、彼にとってはこうして共にもとの世界に帰るためだったろうに、その努力を踏みにじってしまうのは申し訳ない。それでも望美はもう決めていた。
「ごめんね、譲君。私はここに残るよ。譲君だけ帰って。お父さんとお母さんに、親不孝な娘でごめんなさいって謝っておいて。でも自分で決めたことだから、後悔しません、お父さんお母さんも元気でしあわせでいてくださいって、伝えて」
「何言ってるんですか先輩、だって先輩は弁慶さんに……」
 何かを言おうとする譲を、光のほうへ強く押した。バランスを崩した譲はそのまま時空の扉に吸い込まれる。あとは龍神が無事にもとの世界へ送ってくれるだろう。驚いた顔をしている譲ひとりだけを吸い込んで、望美の目の前で時空の扉は閉じられる。
 それを見届けたあと、望美は空へ向かって語りかけた。
「白龍。前に言ってたこと、お願い」
 声に呼応するように、空から龍の姿の白龍が現れる。神々しい光を放つ龍は、その姿だけでやはり神なのだと思い知らされる。
「それでいいのか、神子」
「うん」
「……それが、神子の願いなら……」
 どこか苦しげな白龍の声が届いた。
 白龍を包んでいた光が強くなって、それに従いゆっくりと望美の意識が消えていく。眠くてたまらないときに、意識が途切れていくようなあの感覚が彼女を包む。沈んでいこうとする意識の中で、望美はポケットから紐を取り出した。無理を言って弁慶からもらった、彼の髪結い紐だ。それを胸元で握り締める。
(弁慶さん)
 このことは誰にも言っていない。そして京の気を浄化しているあいだは誰にもその姿は見えないという。だから、みんな、望美がもとの世界へ帰ったと思っているだろう。それでいい。
 せっかく一緒にいて欲しいと言ってくれたのに、その弁慶の手を振り払ってしまった。そのときの哀しげな顔を思い出す。最初はすこし哀しむかもしれない。でも大丈夫。きっとすぐに忘れる。そして、復興していく京を見て、笑っていて欲しい。どうかもう苦しんだりしないで。
(弁……け……、…………)
 望美が眠りにつくと同時にその体は光に包まれ、池の中央付近へと運ばれる。ゆっくりと彼女のまわりに水晶ができ、望美を閉じ込めた。まわりに結界が張られ、外からは遮断される。
 そして神泉苑は静けさを取り戻す。まるで、何事もなかったかのように。



 誰も知らぬうちに、誰も気付かぬうちに、白龍の神子は穢れた京の気を浄化していく。閉じ込められた水晶の中で、眠りながら。
 浄化されるたびに、京の町は活気を取り戻していく。けれど誰もそれに気付かない。
 望美はずっと、水晶の中で眠ったまま。
 それを見守りながら、白龍はずっと願っていた。誰にも知られないということが神子の願いでもあった。けれど、どうか気付いてあげてほしいと。


 To be continued.

 続きを読む