眠る四葩のその足元に 8


 空の器に水を注ぎ込むように、弁慶の頭の中に、白龍の持つ望美の記憶が入ってくる。そんなことができるのも龍神の力なのだろう。望美が秋の京で、京の穢れを知ったこと。譲だけをもとの世界に帰して、自ら望んで眠りにつく姿。彼女が何故こんなことになっているのか、言葉よりも雄弁に伝えられる。
 脳裏に直接浮かんでくるそれらの映像に、弁慶は片手で顔を覆った。肩が震える。上手く言葉が出ない。倒れそうになって、足元の水が跳ねた。
「望美さん……」
 弁慶は、水晶の中にいる望美を見つめた。
「どうして……どうして、そんなことを……」
 呟いて、けれどすぐに自分で自分の問いを否定する。そんな問いをすることは愚かだ。弁慶だって、京を守るために、自分ひとりですべてを背負って死のうとした。それと同じだ。望美は京を浄化するために──弁慶を守るために、こうしたのだ。
『ずっと、ひとりで苦しんできたんですね。でも、もうこれ以上、苦しまないで』
 あのとき彼女が弁慶に告げた言葉は、気休めでも口だけの慰めでもなく、まさしく彼女の本心だったのだ。
(そのために、君は)
 目の前の水晶に手を這わせる。けれど水晶は厚く、到底望美には届かない。触れることも叶わない。
 望美を見つめていた弁慶は、彼女が何かを握っていることに気付いた。胸元に乗せられた手に、何かがある。大部分は握りこまれていて見えないが、その端が手からこぼれている。くすんだ山吹色をしたそれは──。
(あれは)
 弁慶は自分の首の後ろへ手を回す。そこで弁慶の髪を束ねている鶸浅黄色の髪結い紐。それの代わりに彼女に渡した、それまで弁慶が使っていた髪結い紐だ。それをしっかり握り締めて、望美は眠っている。
「────っ」
 見えない手で肺を握りつぶされるような痛みを感じる。息が出来なくなりそうなほどに苦しい。
 望美は、どんな気持ちで髪結い紐を編んだのだろう。どんな気持ちで弁慶の告白を断ったのだろう。どんな気持ちで髪結い紐を渡したのだろう。どんな気持ちで眠りについたのだろう。

『何かを守るために、嘘ついて、みんな騙して、自分ひとりで背負い込もうとする気持ちは、あんたならよく分かるだろ。なのになんで気付いてやれなかったんだよ!!』

 ヒノエの言葉が、苦しいくらい胸に刺さる。彼の言う通りだ。弁慶はその気持ちを知っているのに、そのつらさを知っているのに、どうして気付いてあげられなかったのだろう。あのとき、あの厳島で、弁慶の乞いを断った望美がどんな顔をしていたか、ちゃんと見ていたなら気付けたかもしれないのに。あのとき弁慶は彼女から目をそらしてしまった。
 強く拳を握り締める。けれど、たとえ力の限り拳を叩きつけたとしても、弁慶の力ではこの水晶を壊すことはできないだろう。
「白龍……」
 弁慶は背後にいる子供の姿の龍神に問い掛けた。
「これを──望美さんが京の浄化をすることを、とめることは出来ないんですか」
「それは、出来ない……。それが神子の願いで、私はそれを叶えると、約束した……。神子との約束を、破ることは出来ない……」
 白龍は哀しげな顔で、ゆるく首を振る。望美を助けられないことを、彼自身も歯がゆく思っているのだろう。
 龍神の力を持ってすれば──というよりも、もともと望美を水晶に閉じ込めたのは白龍なのだから、これを解除しようと思えば解除すること自体は簡単なのだろう。それでも、白龍はそれをすることが出来ない。それが、約束だから。ヒトならば約束を破ることなど簡単にできるのに、神である彼はそれがどうしてもできないのだ。
「それなら、京の浄化は、いつ終わるんですか」
「……わからない……」
 また哀しげな顔で、白龍は首を振る。それは弁慶の中に流れ込んできた、白龍が望美との会話の中でも言っていたことだ。正確な時間を知ることは無理なのだろう。
 京がどんどんと浄化されていることは、弁慶にも分かる。着実に復興していく京を間近に見ているのだから。だが、完全に浄化されるまでにどれくらいの月日がかかるのか。1年先なのか5年先なのか10年先なのか。──それまで望美の体が穢れに耐え切れるのか。
 望美のように時空を飛ぶ力を、弁慶は持っていない。どんなに後悔しても、歴史をやり直せない。それなら、どうすればいいのだろう。弁慶に、何ができるだろう。
(僕は)
 もういちど、水晶の中の望美を見つめた。穏やかな寝顔。微笑んでいるようにさえ見える。それが逆に哀しい。
 空間が一瞬歪むような感覚がしたあと、見えない壁を潜り抜けるようにしてヒノエと敦盛がこの空間に入ってくる。彼らも弁慶のあとを追って来たのだろう。
「弁慶殿……」
 水晶の前にいる弁慶に、敦盛の気遣うような声がかけられる。ヒノエは何も言わずに、睨みつけるように弁慶を見ている。その痛いほどの強い視線を弁慶は受け止める。
「──あんたは」
 しばらくその場にたたずんでいたあと、ヒノエが声を発した。
「あんたはこれからどうするつもりだ?」
 返答次第では許さないと、ヒノエの目が語っている。この年の近い甥が、望美に惹かれていたことを知っている。その上で、望美の相手が弁慶ならと、あきらめたことも。弁慶はヒノエの信頼も裏切ってしまったのだ。

「僕は──望美さんを待ちます」

「待つ……?」
「ええ。浄化が終われば、彼女は目を覚ますんですよね? だから、その日を待ちます」
「……何年かかるか、分からないよ? それに……もし、神子が穢れに耐え切れなかったら……」
「大丈夫ですよ」
 ためらいがちに告げられる白龍の言葉に、弁慶は笑う。
「彼女は強いひとです。きっとやり遂げます。それを、僕が信じずにどうするんですか」
「弁慶……」
 結局のところ、たとえ弁慶が他に何を望んでも『待つ』ことしかできないわけだが、それでも、自分の意志で望美を信じて待とうと決めた。
 さっきヒノエに言われたではないか。どうして望美を信じてやらなかったのかと。その通りだ。だから、今度こそは彼女を信じる。あんなに強い彼女が、穢れなどに負けるわけがないと。やがて目覚める日が来ると。たとえ弁慶の勝手な希望だとしても。だからその日を待つのだ。何年かかろうとも。
(望美さん)
 弁慶は望美の眠る水晶に両手を当て、祈るように目を閉じて額を当てた。
 今は何も届かない。手も声も、弁慶の祈りも。それでも。


 To be continued.

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