眠る四葩のその足元に 9


 雨上がりのぬかるんだ道を、弁慶は歩く。その姿を見つけて、町人が声をかけた。
「やあ弁慶先生、お出かけかい?」
「ええ、ちょっと神泉苑まで。昼過ぎには帰ってきて、午後には診療所を開きますから」
「そうか、なら夕方あたりに女房の薬をもらいに行くかな」
「分かりました。用意しておきますね」
「弁慶先生、うちのばあちゃんの薬もよろしくね」
 みんな慌しく働きながら、それでも弁慶にいろいろ声をかけてゆく。人々はみんな明るく、活気に満ちている。ここら一体は、数年前までは貧しい者達ばかりが住まう荒れ果てた通りだったが、だいぶ様変わりしてきた。貧しいことには変わりはないが、それでも家族の食い扶持くらいはちゃんと得られるようになっている。
 京の穢れは、間違いなく浄化されているのだろう。水は澄み、木々は豊かに覆い茂り、大地は作物を実らせている。去年は天候がよく豊作で、だいぶ楽に冬を越すことができた。今年もこの分なら、飢饉になることはないだろう。
 あれから、4年が経つ。京に龍神の加護が復活してから──望美が京の浄化のために眠りについてから。
 今も水晶の中で、望美は眠っている。
 弁慶は、3日に一度は必ず神泉苑に行く。望美に逢いに。逢うといっても、弁慶には水晶に閉じ込められた望美の姿を見つめることしかできない。それでも望美のもとへ行って、最近あった出来事などを話しかけるのだ。望美に届くはずもないと、分かっていても。
 弁慶ほど頻繁にではないが、朔や九郎や景時、そしてヒノエなども、時折ここへ来ているらしい。
 神泉苑で眠る望美を見つけたあと、八葉と朔には、望美のことが伝えられた。もとの世界でしあわせに暮らしているとばかり思っていた仲間の真実に、みんな驚き、そして涙を流した。朔と九郎には泣きながら殴られた。弁慶はそれを甘んじて受け止めた。その程度で贖罪になるとも思わないけれど。リズヴァーンは何も言わなかった。もしかしたら彼は知っていたのかもしれない。
 弁慶は、いつものように、結界で閉ざされた空間に入ってゆく。そこには相変わらず、水晶の中で望美が眠っている。いつものように水晶に近づいたところで、不意に声が聞こえた。
「弁慶」
「白龍?」
 聞こえたのは、白龍の声だ。弁慶はまわりを見回して、その姿を探す。最初の日に姿を現わして以来、白龍が姿を見せることはなかった。今も、この空間内の何処にもその姿はない。ただ声だけが聞こえた。
「京の浄化が終わる……神子が、目を覚ますよ」
「!!」
 弁慶は水晶に閉じ込められている望美を見つめた。水晶が、それ自体が発光しているように淡く光る。
 氷が溶けるように、望美を覆っていた水晶が消えていく。水晶が消え、支えを失って倒れる体を、弁慶は抱きとめた。
 そこにいるのは間違いなく望美だ。ずっと触れることもできなかった身体が、今腕の中にある。
「望美さん……」
 その存在を確かめるように、弁慶はその頬に触れた。あたたかい。たしかに望美はそこにいる。
 輪郭をたどるように、何度も彼女の頬や髪を撫でていると、かすかにまぶたが震え、ゆっくりと、瞳が開かれた。長い間、見ることが叶わなかった、緑の瞳が開かれる。
 まだはっきりと覚醒していないのだろう。焦点がはっきりしないまま、瞳が中空を彷徨う。そしてやがて、間近にいる弁慶の姿を捉えた。
「……弁慶さん?」
 呟く声は掠れている。水晶に守られていたとはいえ、永い眠りからの覚醒に、体がまだついていかないのだろう。
「私……」
「京の浄化が終わって、目を覚ましたんですよ」
「……弁慶さん、知って……?」
 弁慶の言葉に、望美がわずかに目を見張る。
 もしも弁慶が知らないままだったなら──気付かないままだったなら、彼女は目覚めたあとどうしていただろう。自分から弁慶の前に現われてくれただろうか。それとも、また何も言わずに龍神に頼んでもとの世界に帰っただろうか。──おそらくは、後者だろう。一度は弁慶の手を振り払ったのだから、もうそんな権利はないと、弁慶の前から消えていただろう。だから弁慶は、決めていた。
「君が目を覚ましたらどうしようか、ずっと考えていたんです」
 弁慶は望美を抱きしめる。
「もう君に乞うたりしません。君が何を言っても、君が嫌がっても、もう君を離しません。どんなはかりごとをめぐらせてでも、ずっと僕の傍にいてもらいます」
「弁慶さん……」
 永い眠りから目覚めたばかりで、まだ上手く体が動かないのだろう。それでもたどたどしい動きで、望美が弁慶の背に腕を回す。握っていた髪結い紐が手から離れて、水の中に落ちた。でももう、それはいらないのだ。そんな代わりではなく、本物の弁慶がここにいるのだから。
 音もなく、空間をさえぎっていた結界が割れて消える。途端にそこは、神泉苑の池の中に変わる。同時に、弁慶の手の甲が一瞬熱を帯び、気付けばそこにはまっていた宝玉が消えていた。望美の神子としての役目が完全に終わり、同時に八葉の役目も終わったのだろう。
 龍の咆哮が、どこか遠くで聞こえた気がした。


 To be continued.

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