Ave Maria <アヴェ・マリア> -1-



「大佐、抱いて欲しいんだ」

 深夜、ひとりきりで自宅を訪ねてきた少女がそう言い出したとき、疑問を持たなかったわけではなかった。



 まだ16にもならぬ少女は、自らの犯した罪を枷として、ずっと『女』であることを拒み続けていた。
 肉体を失ってしまった彼女の弟は、ぬくもりを感じることも、やわらかな感触を感じることもできなくなってしまった。それに対して、片腕と片足を失くしたとはいえ、何不自由ない身体を持っている自分を、ひどく責めているようであった。
 だからなのか、彼女は常に少年のような服と仕草と言葉遣いで、普通の少女が望むようなものすべてを──流行の服や、可愛らしい小物や、きれいな色の口紅──そんなものを、すべて拒絶して生きていた。
 そのことについて、彼が何かを言ったことはない。彼女自身がそう決めたことなら彼が口を出すことではないし、旅をするなら性別を男で通した方が有利なこともあるだろう。
 ただ、もったいないとは心の中で思っていた。
 願掛けのためと伸ばされている彼女の金の髪は鮮やかに光を弾いて、若さに弾ける瑞々しい肌は薄い紅を隠した雪白だ。たとえばその髪を解き、桜色のやわらかな素材のワンピースでもまとったなら、相当の美しさだっただろう。
 少女時代など一瞬だ。『今』を逃せばもう二度と手に入らないモノもたくさんあるだろう。 それを彼女はすべて捨てて生きようとしている。
 時には枷を外して、自らの罪を忘れて、ほんのひとときただの『少女』に戻る時間があったとしてもいいのではないか。傍で見ている彼はそう思っていたが、それでも彼女は常に『男』であり続けようとしていた。頑ななほどに。



 だから、それは、本当におかしなことだったのだ。
 彼女が抱いて欲しいなどと言い出すなど、常には考えられないことだった。
 何を言い出すのかと、彼は眉をひそめた。
「……鋼の。何を言っているのか、分かっているのか?」
「分かってるよ、俺だってもうすぐ16だ。そこまで子供じゃない」
「わかっているならなおさら」
「大佐、お願いだから……っ!」
 切羽詰ったような高い声が落とされる。
 溺れる者が必死にもがいて助けを求めているようなその声音に、ちいさく溜息を吐いた。
「とりあえず、中に入りなさい」
 深夜に玄関先で交わすような会話ではない。屋敷を囲む庭は広いので、近隣の住人にも、前の道路を通る者にも声など届かないだろうが、このまま玄関で押し問答をするつもりはなかった。
 居間まで通したものの、この家にまともな来客用の品などない。もとより寝るためと、研究をするためだけにあるような場所で、彼以外の者がこの家に来ることなどないのだ。
 コーヒーくらいは沸かすことができても、それを入れて出すためのカップが存在しない。
 ほんの数秒困ったあと、茶を出すことは諦めた。もとより彼女はお茶を飲みに来たわけでもない。本題に入ったほうが早いだろう。
「鋼の、」
 言いかけた言葉がとまった。すがりつくように、彼女が抱きついてきたからだ。
「……鋼の」
「大佐……」
 それは抱擁と言うよりは、捨てられた子猫が必死に爪を立てて服にしがみついてくる、その姿に似ていて。
 だから彼はその身体を引き剥がすことはできずに、そっとその小さな背に腕を回した。

 ちいさな、ちいさな背中。

 身長が低いというだけではなく、同じ年頃の娘達と比べても、その身体は小さく華奢だ。ほんの少し力を込めれば、壊すことなど造作もないのだろう。
 世間で『鋼の錬金術師』と言えば、その二つ名と、最年少で国家資格を取ったということから、常人離れした天才だと思われている。実際錬金術に関して彼女は天才なのだろう。
 だがその中身は、こんなちいさな子供でしかないのだ。
 本来なら、親やまわりの大人達に庇護されて、ただぬくぬくと愛されて育っているべき年齢の少女でしかない。
 そのすべてを失ってしまったのは自業自得だと、彼女を責めるつもりは毛頭ない。
 むしろ、何故彼女ばかりがこんなに責を負うのかと、運命というものがあるなら腹立たしく思う。

 それでも、いつも決してくず折れることなく、まっすぐに伸ばされていた背中。

 それが今、自分の腕の中で、小さく震えている。
 細い腕を精一杯伸ばして、自分にしがみついている。
 それを見て、彼に拒絶することは不可能だった。

 彼女が何故そんなことを言い出したのか、真意は定かではなかった。
 それでも大体推測はついた。
 彼女は、自分の中の『女』という部分を押し潰して生きてきた。性差のあまりない12・3歳の頃はそれでもよかっただろう。だが、年を重ねるにつれ、男女の違いは大きくなる。
 自分の性を偽って生きることは、精神的に大きな負担になるだろう。
 それでも、自分自身への戒めや、弟への贖罪や、旅をする上での必要性など、さまざまなものが彼女の中にあり、激しく葛藤し──そして、耐え切れなくなったのだろう。
 その逃げ口が彼であり、性行為を求めることになったのだろう。
 それならそれでいいと思った。
 それで、彼女が少しでも救われるなら。救うことができるなら。
 片腕を彼女の膝裏に回して、そのまま抱き上げた。
 機械鎧をつけていてもまだ軽い彼女の身体は、やすやすと寝室へ運ばれる。
「……っ」
 意図を悟って小さく息を呑む音が聞こえたが無視した。
 殺風景な寝室の、ベッドの上に彼女を降ろしてその服に手をかけた。
「優しくするつもりも、途中でやめるつもりもないぞ」
「……うん」
 それがその夜まともに交わした最後の言葉で、あとは喘ぎ声と泣き声と互いの名前を呼ぶ声だけになった。
 そういえばこの寝室に自分以外の人間を入れたのは初めてだったと彼が気付いたのは、もうずいぶん後になってからのことだった。



 彼女にとってそれが捌け口でもよかった。逃げ口でよかった。
 そして自分にとってその行為が性欲だったのか、可哀相な少女を救うための慈善事業だったのか、それとも、心の底にあった想いに突き動かされてのことだったのか。
 そのどれでもあったように思うし、どれでもなかったようにも思う。

 ただはっきり分かるのは。

 自分はすべて分かったつもりでいて、けれど彼女の気持ちなど本当は何ひとつ分かっていなくて。
 そして──許されないほどに愚かだった。


 To be continued.

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