Kyrie eleison <キリエ・エレイソン> -4-


 男が残業を終えて自宅に辿り着いたのは、すでに日付の変わりそうなころだった。
 普段から多忙な仕事ではあるが、今日は少女との逢瀬に時間を割いてしまったため、業務が滞りこんなに遅くなってしまった。だが別段困ることもない。一人暮らしの家では、待っている者もいない。家になど寝に帰るだけだった。
 寝室に入り、軍服を脱いだところで突然電話が鳴った。何か緊急事態でもあったのかと、急いで電話に出る。
 受話器からは、切羽詰ったような声が聞こえてきた。
『もしもし、もしもし! 大佐! 助けてください!』
「アルフォンス君か?」
 電話の相手は部下ではなく、後見している姉弟の弟のほうだった。
 身体が鎧のせいで、もともと軽くエコーのかかった声が、慌てているせいかひっくり返って聞き取りづらい。
『姉さんが──姉さんが、血が、とまらなくて。僕が、僕のせいで』
 電話越しの声はほとんど悲鳴に近かった。ひどく混乱している。言っていることは要領を得ないが、彼女の身に何かあったということは分かった。
「落ち着きなさい。今すぐ行くから。宿にいるんだな?」
 姉弟が東方に来たときにいつも泊まっている宿は分かっている。適当な服を着て急いでそこへ向かう。深夜であるためすでに寝静まっている宿屋へ無理に入った。
「鋼の!」
 姉弟が泊まっている部屋に入ると、血の匂いが鼻についた。眉をひそめる。
「大佐」
「アルフォンス君、鋼のは?」
 少女はベッドの上にいた。ぐったりと血の気を無くした顔で目を閉じている。昼間、そう強要したように、下半身だけ何も身につけていない。その下肢は血にまみれている。弟が何度か拭いて、けれどあふれる血が止まらなかったのだろう。まわりに、血のついたタオルやティッシュがあった。
 患部を見るために、脚を大きく開かせる。けれどその刺激にも目を覚まさない。血がついて見にくいが、性器が傷ついていることは分かった。会陰が裂けているのかもしれない。
 出血の量や顔色、傷の具合から見て、このままほおっておくわけにはいかなかった。男は自分のコートで少女の身体をくるむと、傷に響かないように抱き上げた。
「病院に運ぶぞ」
「えっ、でも」
「大丈夫だ、ちゃんと処置をしてくれる知り合いの病院がある」
 軍属の病院に運ぶわけにはいかないが、こういうときに融通を利かせてくれる、アンダーグラウンドの知り合いくらい何人もいる。
 怪訝な顔を向けてくる宿の従業員を無視して少女を連れ出し、車を走らせ懇意にしている女医のところへ運んだ。ぱっと見は病院とは分からない、どこにでもありそうな郊外の一軒家だ。そこの医者は、一見中年のどこにでもいそうなおばさんだが、腕は確かだ。
 たたき起こすと、夜中に急にやってきたことに文句を言いつつも、腕の中のぐったりとした少女を見るや看護婦を連れて処置室に入っていった。
 治療が終わるまで、出来ることは何もない。苦しい気持ちのまま、鎧の弟と2人で、処置室の前の廊下のベンチに並んで座って治療が終わるのを待つ。ふと自分の胸を見れば、シャツが紅く染まっていた。抱き上げたときに、少女の血がコートを通して染み込んだのだ。思った以上に、傷はひどいのかもしれない。
 隣に座っている、鎧姿の彼女の弟を見る。鎧のため表情というものが存在しない彼だが、きっと泣きそうになっているのだろう。
 あの傷が誰につけられたものか、男には分かっていた。
 傷だけ見たなら、普通なら強姦でもされたのかと思うだろう。だが彼女の性器に精液はついていなかった。そして、場所が彼らの泊まっている宿屋であったこと。彼の取り乱しよう。それらを合わせて考えれば、誰がやったのか想像はつく。
 この姉弟の結びつきは非常に強いものだ。お互いがお互いを最上としている。それなのにあんな傷を負わせるなど、一体何があったというのか。
「……アルフォンス君」
 呼びかけに、弟は怯えたように大きく身を震わせた。鎧の身体が大きな金属音を立てる。
 二人の間に、わずかな沈黙が落ちた。
「──僕が、姉さんを」
 ぽつりと、鎧の弟は言葉をこぼした。
「今日、姉さんが、大佐とセックスしているのを見て、僕は」
「────」
 男は言葉を失う。昼間のことを見られていたことにも気付いていなかったし、この弟が姉を傷付けた理由がそのことにあるとは思わなかった。
「……馬鹿な、ことを……」
 そこまで聞けば、何があったのかなんて、大体想像がついた。
 この弟は、身体はでかくても、中身はたった14の少年でしかないのだ。思いもかけず姉の情事の場面を見てしまい、少年らしい潔癖さからくる嫌悪と、最愛の姉を取られた嫉妬と、自分が捨てられてしまうのではないかという不安と、そんなものに駆られて、衝動的に姉を傷付けてしまったのだろう。そうして、彼女も自分自身を責めて、ろくに抵抗もしなかったに違いない。
「鋼のは、君のために、私に抱かれていたんだ」
「……え……」
「文献や情報の代わりに身体を差し出せと、私が言った。だから鋼のは、そのために」
「そんな……」
 自分の過ちを悟って、鎧の弟は頭を抱える。けれど男はそれを責めることは出来なかった。そんな資格などない。誰が一番悪いかと言えば、男が一番悪いのだ。
 この弟も、少女も、まだ子供でしかない。情報や文献や庇護を得るために、身体を差し出さねばならないほど。何かあったとき、憎んでいるはずのこの男にしか頼れないほど。それを利用して無理を強いているのは、男なのだ。
 不意に目の前の扉が開き、処置室の中から医者が出てきた。傷の具合がひどいのか、険しい顔をしている。
「治療は終わったよ。まだ寝てる。しばらく入院だ」
 裂傷がひどく、何針か縫ったと、女医は告げた。
「裂傷は内臓の方にも達してるから、治るまでに時間がかかるだろうね」
 その言葉に弟がうつむく。鎧のため表情はないが、もしあったなら、きっとつらそうな顔をしているのだろう。
 女医は、弟に気付かれないように、ちいさく顎をしゃくって男を呼んだ。廊下の先を曲がり、弟に会話の届かない場所まで行く。
「わたしゃ、ちゃんと金さえもらえれば、あんた達の関係も、何があったかなんてことも、詮索しないけどね。──もしかしたら、子宮のほうにも傷がついているかもしれない」
「それは」
「もう少し傷が癒えたあと詳しい検査をしてみないと分からないけど、最悪、もう妊娠は無理かもしれない」
「────」
 告げられた言葉に、男は言葉を失って、ただその場に立ち尽くした。


 To be continued.

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