Kyrie eleison <キリエ・エレイソン> -5-


 やわらかく頬を撫でられる感触に、意識が浮上した。
 重いまぶたをなんとか持ち上げると、見慣れない白い天井。ほんの少し首を傾ければ、つい昼間にも会ったばかりの男がいた。
「……何で大佐が、こんなところにいるんだよ」
「ここは私の知り合いの病院だからね」
「病院……」
 少女は何故そんなところにいるのか一瞬考えて、唐突に思い出した。
 アルフォンスは、どこにいるのだろう。
 起き上がろうとして、身体に力を込めたはずなのに、身体はまるで自分のものではないかのように動かなかった。押さえつけられているわけでもないのに、体に力が入らない。首はわずかに動かせるのに、それ以外はまるで自由にならなかった。
 ちいさくもがくようなその動きに気付いて、男がそっと肩を押さえてくる。
「まだ麻酔が効いているんだ。そのまま寝ていたまえ、起きるのは無理だ」
「アルが──」
「ああ、分かっている」
 なだめるように、男は少女の頬や肩をそっと撫でる。
「……何針か縫ったんだ。無理は禁物だ。しばらく入院することになる」
「どれくらい? 長く入院してられない。早く、賢者の石を探しに行かないと」
「すぐは無理だ。ちゃんと治るまでここで養生するんだ」
 麻酔の効いている状態では、自分の容態も正確に掴めないけれど、何針か縫って入院が必要ということは、それなりにひどい状態なのだとわかった。
 きっとアルフォンスは自分のしてしまったことに心を痛めている。早く弟に会って、何も気にすることはないと言ってやりたかった。
「アルは?」
「君に合わせる顔がないと、少し頭を冷やすと言っていた」
「馬鹿だなあ、そんなの、いいのに。俺が、悪いのに」
 アルフォンスは何も悪くない。あの心優しい弟は、誰かを傷付けるつもりなど毛頭ないと知っている。
 鎧の身体になってしまったばかりの頃、力の加減がわからずに、寄って来た小鳥を傷つけてしまったことがあった。その小鳥は幼馴染の看護でまた元気に飛べるようになったのだが、アルフォンス自身はとてもショックを受けて、しばらく動物には近寄らないようにしていた。あんなに動物好きなのに。だからこそ。
 自分に触れるときも、いつだって、力加減を誤って傷付けないようにとおそるおそるそっと触れてくることを知っている。とてもとても優しい弟なのだ。
 それに、たとえ彼が傷付けようという明確な意図を持っていたとしても、少女はそれを受けて当然なのだ。悪いのは、すべて少女のほうなのだ。
 責められていたとき、言い訳をしなかったのではない。出来なかったのだ。アルフォンスが言った、そのとおりだったから。
 様々な庇護と引き換えに、この男に身体を要求された。けれど、それは強要ではなかったし、賢者の石を見つけるためには仕方ない、等価交換だから仕方ないと言いつつ、心の底では喜んで抱かれていた。自分から足を開いていた。
 賢者の石を見つけることを──弟の身体を取り戻すことを第一としなければならないのに、それを忘れてしまいそうな自分がいた。男の命令だから仕方ないと言い訳をして、目をそらそうとしていた。
 だから、弟に責められたとき、本当は、安堵していたのだ。
(こんな俺を、許さないで)
 アルフォンスの身体をあんなふうにしておいて、他のことに気をとられるなんて許されない。自分だけがしあわせになることなど許されない。罰せられて、当然なのだ。これは自分の罪に対する罰なのだ。
「大佐」
 そっと頬を撫でてくれる腕を避けるように、ちいさく顔を動かした。
 そして少女はまっすぐに男を見つめる。強い意志を秘めた金色の瞳が、まっすぐ男に向けられる。
「──俺、もう大佐と、しない」
 そう言い出すとすでに予想していたのか、男は驚いた様子も見せずにただ静かに言葉を聞いている。
「代わりに、なんでもするから。だから、だから──」
 それでも、この男の庇護がなければ、今までと同じように賢者の石を探すことはできないのだ。
 必死に言い募る少女のまぶたに優しいキスが落とされる。
「そんな必要はないよ。無理を強いていたのは私のほうだからね」
「大佐、ごめん」
「君が謝ることは何もないよ」
 ちいさな子供のように、頭を撫でられる。優しいその感触に、そっと目を閉じる。本当はこの腕も、この熱も失いたくない。たとえ強要だったとしても、この腕は優しく抱きしめてくれた。あたたかく包んでくれた。この腕の中にいる間は、弱い子供でいられた。安らいで眠れた。本当はずっと、抱きしめていて欲しかった。
 でもそれは許されないから。
「もうすこし、眠っていなさい」
 頭を撫でていた手がそっとまぶたの上に乗せられる。それに逆らわずに少女は目を閉じた。
(アルフォンス)
 昔の生身だった頃の弟の姿と、今の鎧の弟の姿が思い浮かぶ。
 一番大切なことを、見誤ってはいけない。忘れてはいけない。弟の身体を取り戻すというその誓いを、もう一度胸に深く刻む。
 けれど男の手のあたたかさに、たった一筋涙がこぼれた。


 To be continued.

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