In paradisum <イン・パラディズム> -0-


 舗装されていないあぜ道を、男は花を手に歩いていた。心地よい風が吹いている。澄んだ空気と、豊かな緑。何もないと言ってしまえばそれまでだが、ここは本当にのどかでよいところだ。都会にはないものが、ここにはあふれている。
 東の果てにある、かつて鋼と呼ばれた姉弟の故郷。男がはじめてここを訪れたのは、もう5年以上前のことだ。そのときのことは、今でも鮮明に思い出せる。
 噂で聞いた優秀な錬金術師を勧誘に来て、そして目にしたのは血まみれの錬成陣と片手足をなくした子供。あれが、すべてのはじまりだった。
 あれから長い時が経ち、今はあの子供も成長し、男の妻となっている。胎には子供もいて、春には家族が一人増えるだろう。
 今日は、身重で動けない彼女の代わりに、この彼女の故郷へ、彼女の母と弟の墓に花を供えにきたのだ。
 墓地に入り、並べて建てられた二つの墓に花を供える。いつだったか、少女が昔の思い出話をしてくれたときに語っていた、彼女の母が生前好きだったという白い花だ。
 二つ並んだ石碑は、ひとつは長い時間雨風に晒されたせいで灰色にくすんでしまっているが、もうひとつはまだ花に負けないくらいの白さを保っている。
 男は目の前にある、その新しい墓石を見つめた。今は妻となった少女の、弟の名が刻まれた石。だが、たとえ両の爪が剥がれるほど掘り返したって、その下には何もない。
 なんにも、ないのだ。
「おや」
 不意に後ろから声をかけられた。振り向くと、黒い犬を連れた小柄な老女が立っていた。ここで暮らしていたころ、姉弟の後見人だった人物だ。
 彼女も墓参りにきたのだろう。片手に、色鮮やかな花を持っている。
「ご無沙汰しております。お元気そうで何よりです」
「ああ、ひさしぶりだね。あの子は元気かい?」
「ええ、おかげさまで。もう少し落ち着いたらこちらにもうかがおうと思っているのですが」
「いいよ。妊婦に無理させるものじゃない。それに──今あの子に会っても、あたしらのことも覚えてないんだろう?」
「まだ記憶が安定していませんので……」
 中央に残してきた金の髪と瞳の少女を思い出す。
 身重であるというだけでなく、彼女の記憶は所々抜け落ち、精神的に不安定な状態だ。混乱を避けるため、今はまだ、過去に触れるような接触は避けたかった。
 老女は墓に花を捧げると、男の隣に並んで同じようにそこにある墓石を見つめた。犬も行儀よく並んで座り、墓を見つめている。
「……もうそろそろ、何があったのか話してくれてもいいんじゃないかい?」
 墓石のひとつを見つめたまま、老女がつぶやくように言った。
 老女が何を言いたいのか、男には分かっていた。
「すでにご連絡しているとおりですよ。一年前アルフォンス・エルリックが亡くなり、その後彼女と結婚しました。弟を亡くしたショックで彼女の記憶に多少の混乱が生じていますが、今のところ日常生活に支障はないですし、それ以外はいたって健康で、お腹の子供も順調に育っています」
 事実など、ただそれだけだ。
 だが老女はそれに納得しなかった。隣に立つ男を見上げる。
「あんたと腹の探りあいをする気も化かしあいをする気もないんだ。あたしはただ真実が知りたいだけだよ。そして、あの子のしあわせを願っているだけだ」
 男は、まっすぐに見つめてくるその視線に、この老女は『知っていた』のだと確信する。知っていて──それでもなお、彼女のしあわせのために、ただ黙って見守ってきたのだと。
「何があったんだ?」
 もういちど、老女は問うた。
 それに、男は目を細めるようにしてどこか遠くを見つめた。
「……何があった、というわけではありません。ただ、『そのとき』が来ただけです」
 いぶかしむように老女が眉根を寄せるのが分かった。
 男は空を見上げる。今は遠くにいる愛しい少女を想った。
「そして私も、彼女のしあわせを願った。ただそれだけです」


 To be continued.

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