In paradisum <イン・パラディズム> -2-


 アルフォンス・エルリックの死体が見つかったのは、それから数日後のことだった。
 死体、というのは正確な表現ではない。もともとその鎧の中身は失われていたから、ただ、血印に傷のついた、もう二度と動かない鎧が街の片隅に転がっていただけ。
 男の権限を使い、軍でその死因を調査したけれど、結局詳しいことは分からなかった。
 一般人から見たらそれはただの脱ぎ捨てられた鎧で、街の片隅に転がっているそれを、通行の邪魔だと路地裏に押しやったり蹴飛ばしたり、子供たちなどは兜を被ったり鎧の中に入ったりして遊んでいたらしい。
 ゴミとして処分される前に回収できたのは、せめてもの救いだった。だが、そんなそれまでの扱われ方のせいで、死因を突き止めることができるような痕跡はかき消されていた。蹴飛ばされたり転がされたりしている間にも鎧に傷が付き、すでにボロボロの状態だった。
 血印に傷はついていたが、それが死ぬ前につけられたのか、死んでからついたのか、また、何によって出来た傷なのか、分からなくなっていた。
 だから、分からないのだ。アルフォンス・エルリックが何故死んだのか。
 何かの事故で血印に傷をつけてしまったのか、誰かに故意に傷付けられたのか、あるいは──自殺なのか。
 ただひとつ確かなことは、アルフォンス・エルリックはもういない、ということだけだった。



 薄暗い室内で、まわりじゅうに本を積み上げて、冷たい床に座り込んだ少女はただひたすらに本を読みふけっている。時折、手元の手帳に何かを写し取ったり、公式や薬品名を書きなぐったりする以外は、本から目を離すこともない。
 差し入れられた食事は、手をつけられないままテーブルの上に置き去りにされている。食事だけでなく、ろくに睡眠も取っていないのだろう。その横顔にはひどい隈ができ、やつれたような面差しになっている。だがそれでも、何かに取り付かれたように、少女は本を読むことをやめない。
 男が大きな音で扉をノックし、中に入ってきても、顔を上げることすらしない。あるいは、本当に気が付いていないのかもしれない。彼女にとって今必要なことは研究のみで、それ以外のことはもう五感にさえ届かないのかもしれない。
 血印の壊れた鎧が見つかってから、すでに数週間がたつ。
 はじめ、弟を失った彼女の憔悴はひどいものだった。それはそうだろう。彼女にとっては唯一の肉親で、生き甲斐と言ってもよい存在だった。命を賭けても守ろうとしていた相手が、いなくなってしまったのだ。はじめて出逢ったときのような暗く濁った目をして呆然としている少女を、誰もが心配した。
 しかし、生ける屍のようだった一時期を過ぎたあと、彼女は錬金術の研究に没頭しだした。 『何の』研究なのかはすぐに分かった。いなくなってしまった弟をよみがえらせるための研究だ。
 かつて魂を錬成したとはいえ、そのときとは状況も違い、そのまま同じようにはいかないのだろう。もういちど弟をよみがえらせるために、寝食を忘れてまでのめりこんでいるのだ。
 男は大股で少女のもとに歩み寄ると、見ている本を取り上げた。
「何すんだよ! 返せ!」
「もう、こんなことはやめなさい」
「こんなことってなんだよ!」
 男を睨みつけ、今にも殴りかかりそうな少女に、男は冷静に言い放った。
「また同じことを繰り返すつもりか? 君だって分かっているはずだ。お母さんのことを忘れたのか? あの苦しみを、今度は弟に与えようというのか?」
「────!!」
 男の言葉に少女が青ざめるのが分かった。ひどいことを言ってるという自覚はあった。
 母を錬成しようとして失敗した記憶は、彼女にとってつらいものだ。それでも、彼女がやろうとしていることをきちんと自覚させ、止めなければならなった。
 人体錬成。死んだ者を生き返らせること。それは禁忌だ。軍が禁止しているから、などという理由ではなく、世界の理を捻じ曲げる大罪だ。
 錬成した彼女の母親はどんな姿をしていただろう。その代償に何を失っただろう。それこそが罪の証だ。今弟を錬成しようとするのは、かつて母を錬成しようとしたのと同じだ。魂に器を与えるのとは違う。決して許されない。
「でも、だって、あいつは俺のたったひとりの弟なんだ」
 泣きそうに、少女の顔が歪む。
「なのに、俺のせいで──」
「自分を責めるのはやめなさい」
 せめて死因がちゃんとわかったなら、まだ心の整理もついたのかもしれない。けれど、死因もわからない突然の死で、それを受け入れることが出来ないのだ。
 分からない死の理由──自殺も、考えられなくはないのだ。
 どんなに強そうに見えても、彼はただの14歳の少年でしかなかった。鎧となってしまった身や、姉の負担になっているのではないかという自責、あてもない旅の日々、人造人間との戦い、身近な人の死──。そんなつらい状況が重なって、衝動的に自殺したということもありえなくはない。その可能性を考えて、少女は自分を責めているのだ。自分が、弟を追い詰め死なせてしまったのではないかと。
 男は慰めるように、少女の頬に触れた。
「彼は君と共に、元の体に戻ろうと頑張っていただろう? 自殺なんてありえない。だからきっと、事故だったんだよ。何かあって──血印を壊してしまった。きっとそうなんだよ」
 少女に言い聞かせるように、優しくゆっくりと言う。
 事故の可能性も、なくはない。血印が壊れたらどうなるかは本人も熟知していたから、触れたり壊したりしないように気をつけていた。でも猫好きの彼は鎧内に猫を入れたり、何らかの事情で人を入れることもあった。そんなときに、何かのはずみで──まったく悪気なく血印に触れてしまったとも考えられる。たとえば、夜の路地裏で猫と遊んでいたときに、誤って猫が血印を引っ掻いてしまった、というような。
「……そう、なのかな」
「ああ、きっとそうだよ」
 理由がどうであれ、少女の弟がもう還らないということに変わりはない。それでも、事故死であると思ったほうが、まだ心が軽かった。
 ぼろぼろと、少女の目から涙がこぼれた。
 弟の死の報せを聞いてから今まで一度も泣いていなかった少女が、やっと涙をこぼした。そのことに、男は安堵する。張り詰めていた心が、少しでも解放された証拠だ。
 少女を優しく抱きしめた。
「もうずっとまともに眠っていないんだろう? 眠りなさい」
 けれど、少女は弱々しく首を振る。
「眠れないんだ。眠ると夢を見る。あいつが──姉さん助けてって言うんだ」
「……」
「だから、大佐、お願い……」
 すがるように、男の服を掴む少女の手の力が強くなった。
 少女が何を望んでいるのか、男には分かった。
 以前より軽くなってしまった少女を抱き上げると、寝室へと連れて行った。シーツの上に横たえ、服を脱がせる。もともと痩せすぎな印象のある体だったが、最近の不摂生のせいで余計肉が落ちてしまったようだ。それでもその薄い胸を両手で包んで揉みあげた。
「あっ……」
 ちいさく立ち上がった乳首が、快感を伝えていた。下肢に手を落とすと、多少は濡れているがまだ十分ではない。
 そこに愛撫を施そうとすると、それを少女の手がさえぎった。
「いいから。そのままいれて……」
「だが、まだ」
「いいから、……痛くして……あのときみたいに」
 それがいつのことを言っているのか、男にはすぐに分かった。彼女をはじめて抱いたときのことだ。母親を錬成した直後の、まだ機械鎧さえつけていないときだ。
 あのときも、少女は今と同じ症状に陥っていた。異形の姿になってしまった母を、自分の犯してしまった罪を、繰り返し夢に見て、まともに眠ることも出来ずにどんどんとやつれていっていた。
 戦場でそんな症状になって壊れていく人間を何人も見た。罪の意識に心が耐え切れなくなるのが先か、不摂生に体が耐え切れなくなるのが先か、どちらにしろやがて壊れてしまうだろうことは明白だった。
 だから、その子供を無理矢理抱いた。それも戦場での経験からだ。
 人肌のぬくもりを伝えるという意味でも、痛みとショックで意識を引き戻すという意味でも、快楽ですべてを忘れるという意味でも、戦場ではよく使われる手段だった。
 彼女にとっては、破瓜の痛みだけでなく、幼すぎてまだ男を受け入れることなどできないはずの性器を無理矢理貫かれ、相当の痛みと苦しみだっただろう。だが少女は、痛みに涙をこぼしながらも、自ら足を開いて男を受け入れた。
 彼女にとってそれは『罰』だったのだろう。
 母の死を冒涜し、弟をあんな姿にしたにも関わらず、それを知った幼馴染もその祖母も、弟本人ですら誰も彼女を責めなかった。そんな優しさは、時としてつらいものだ。少女は誰かに自分の罪を責めて欲しかったのだろう。罰して欲しかったのだろう。だから、そんな少女をはじめて罵った男が与える痛みを、罰として自ら受け入れたのだ。
 そのときのことは、『治療』の一環で、お互いに特別な感情などなかった。
 その後少女と弟が旅に出て、それを影から支えていくうちに、だんだんと少女の存在に惹かれ、恋人となった。ひどい抱き方をしたのは、その最初のときだけだ。そのあとは、いつだって優しく抱いていた。
 今、少女の望むまま、手酷く抱くことは簡単だ。けれど、男は少女の秘裂に優しく指を這わせ、愛撫をはじめた。
「やだ、大佐……もっと、もっとひどくして……」
 その優しい動きをする手に、少女が身をよじって逃げようとする。あのときは何をされても痛いだけだったろうが、成長し、行為にも慣れた体では、快感しか感じない。それでは嫌なのだろう。それを逃がさないように押さえつけて、男は笑った。
「……知っているかい? 戦争中などのときはね、捕虜を拷問することもあるのだが……痛めつけるだけが有効ではないのだよ」
「え……?」
「『ひどく』してあげるよ。君が望むとおりにね」


 To be continued.

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