In paradisum <イン・パラディズム> -5-


 少女はゆっくりと目を覚ました。
 頭が重い。何か夢を見ていた。しあわせな夢だったような気もするし、哀しい夢だったような気もする。けれどその内容を思い出すことはできなかった。
「目が覚めたかい?」
 声をかけられ、声のほうへ顔を動かすと見知らぬ黒髪の男がいた。──いや違う。この男を知っている。なのに、誰なのか思い出せない。
「あんた……あれ? 俺は……」
「私の名前はロイ・マスタング。分かるかい?」
(ロイ)
 少女は告げられた名前を心の中で繰り返す。その名を確かに知っている。この男も知っている。それなのに、どんな知り合いか、どこで出会ったのか、そんなことが思い出せなかった。
(どうして、思い出せないんだろう)
 必死で自分の記憶の中を探るけれど、頭に靄がかかったようにはっきりしない。どうにか思い出そうと意識を深めれば深めるほど頭痛がした。
「無理しなくていい」
 思い出せない苛立ちと頭痛で眉を寄せる少女の髪を、男はそっと撫でる。
「君は『事故にあって』ね、少し『頭を強く打った』んだ。そのせいで記憶に少し障害が出ているのだろう」
 寝ていた寝台から身を起こしてまわりを見回せば、おそらく病院なのだろう、白を基調とした簡素な部屋にいた。
 事故にあったと言われても、その事故自体思い出せない。それだけではない。目の前にいる男のことや事故のことだけでなく、いろいろなことが思い出せなかった。
 自分の名前や、年齢くらいはわかる。けれど、どこに住んでいたか、どんなふうに暮らしていたか、家族はどんなだったか。一枚の写真のようにいくつかの情景がぼんやりと頭に浮かんでも、その前後についてはっきりと思い出せないのだ。
 記憶がないということは、ひどく不安なことだ。自分を確立するための足場がなくなって、くずおれてしまいそうになる。
 不安げな顔をする少女を、男は抱きしめた。
「大丈夫だ。何も心配することはないよ。私がいる」
 そう言われると、ひどく安心した。
 あたたかい胸に抱きこまれて、服越しに聞こえるかすかな心音を聞いていると、心細さが消えていくような気がした。
「なあ……、あんたは、俺のどんな知り合いなんだ?」
 少女は顔を上げて、男に尋ねた。
 この黒髪の男が、まったくの見知らぬ他人でないことは分かったが、それ以外のことは思い出せなかったからだ。
 少女の問いに、男はすこし寂しそうな、困ったような顔をする。
「私は、君の後見人をしていた。そして……君と、恋人だったんだよ」
「え?」
 後見人で、さらに恋人だったというのなら、とても深いつながりだったことになる。それなのに、そう言われても、何ひとつ思い出せなかった。
「いいんだよ、無理に思い出そうとなんてしなくていい。君が今、ここにいてくれるだけでいいんだ」
 男はまた、少女を胸に抱きしめる。
 恋人だったというのなら、こんなふうに忘れられてしまい、きっと哀しいだろう。それなのに、自分を気遣って慰めてくれる男の優しさに、少女の胸がかすかに痛んだ。
 後見人で、恋人だったという男。その記憶はいまだ戻らないが、だからこうして抱きしめられると、こんなにも安心するのだろうか。
 少女は目を閉じて、目の前にある、男の服の胸元を握り締めた。


 少女は男の胸に顔をうずめていたから、彼女の記憶がないことに、男がそっと笑ったのには気付かなかった。


 To be continued.

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