箱庭の夢 1


「進路希望調査?」
 教室で教師からみんなに配られた紙を、ハルヒはものめずらしげに眺めた。何の変哲もない紙に、第一志望、第二志望……といくつかの欄が並んでいる。進路調査書自体がめずらしいのではない。この桜蘭学院でも普通の高校と同じようにこんなことをやることに驚いたのだ。
 超お金持ち学校である桜蘭学院は、何かにつけて世間一般とずれていることが多い。たとえば同じ『文化祭(学院祭)』だとしても、それは一般の高校などとは規模が違うのだ。
「んーまあ一応ね」
「はっきり言ってあんま意味ないけどねー」
 ハルヒの両側から、双子がつまらなそうに紙を揺らしながら答える。
「C組とかD組あたりならこういうのも必要だろうけど、僕らはね〜」
「そうそう。『希望』とか言ったって、進路なんてみんな大体決まってるし」
「ああ、そっか」
 双子の言葉にハルヒは納得する。
 A組は、桜蘭の中でもさらに上流の家の子息が集まっている。大抵の場合は親の跡を継いだり、家の企業に就職したりと進路が決まっているのだろう。
「それに女の子の場合なんかは、許婚がいたりするしね」
「高校卒業か、大学卒業と同時に結婚って子も少なくないよ」
「へえ」
 ハルヒは思わずまわりを見回して、クラスメイトの少女達を見つめてしまった。
 一見すると、礼儀正しくちょっとおっとりした子が多いというくらいで、かつてハルヒが通っていた公立中学の女の子達となんら変わらないように見える。だがその内実は、やはり違うのだ。
 この中に許婚がいる子は何人いるのだろう。おそらくそれは、ハルヒが思うよりずっと多いのだろう。お見合いならまだ想像がつくが、許婚などハルヒには想像つかない。自分の意志とは無関係に決められた結婚相手──それはどんなものなのだろう。
 たとえ親の決めた婚約でも、春日姫や満山姫のように、相手と相愛になってしあわせになることもあるのだろう。もちろんそうでない場合も。別にそれをかわいそうとは思わない。彼女らも自分をかわいそうとは思っていないだろう。
 たとえばハルヒも、幼くして母を亡くし、父は世間一般から見ればあまり受け入れられない性癖の持ち主だ。けれど自分をかわいそうと思ったことはない。ハルヒにとってみればそれは特別なことでもなんでもなく、世間一般とは多少違っていても、それはそれでしあわせだからだ。多分それと同じなのだ。
 彼女らにとってはそれが当たり前で、哀しむことでもかわいそうに思うことでもない。
 ただ、それだけのこと。
「ハルヒの進路も決まってるよー」
「僕らの家の養子になること!」
「何言って……ちょっ、人の調査書勝手に書かないでよ!」
 ハルヒが物思いにふけっている間に、双子は机に置かれたままだったハルヒの調査書を取り上げて勝手に書いていた。急いで取り返してみれば、第一志望の欄に『常陸院家の養子』と油性ペンで書かれている。
「うわっ、ペンで! 光! 馨!」
「えーいいじゃん。うちのおかーさんもおとーさんも賛成してくれてるし」
「うちの子になったら大トロ食べ放題だよー」
「そういう問題じゃない!」
 ハルヒが怒っても、双子は反省する様子も見せずに笑っている。あまりに悪びれないその態度に、逆に脱力して怒る気力をなくしてしまう。
「いいよもう……先生に頼んで新しい紙もらうから」
「なんだよハルヒー。うちの子になるのそんなに嫌なのかよー」
「そういう問題じゃないでしょうが……」
 自分達でいたずらしておいて、ハルヒの態度に文句を言う双子を置いて、ハルヒはもう一枚調査書をもらうために職員室へと向かった。



 桜蘭高校ホスト部では、ハルヒはホスト兼雑用をしている。
 ホスト部員として認められて以来、雑用のほうは強要されたわけではないけれど、ハルヒの庶民癖として、使用した部屋をそのままにしておけずにみんなが帰ったあと簡単な掃除をするようにしているのだ。
 実際はみんなが授業を受けている午前中に清掃業者が入り掃除をおこなっているそうなのだが、自分たちが個人的に飲んだカップを洗ったり簡単にテーブルを拭いたりという程度のことはやっておこうと思ったのだ。
 今日も、少女達が帰り、他の部員達が帰ったあとで、ハルヒは簡単な片づけをしていた。
 他に残っているのは鏡夜だけだ。帳簿付けやスケジュール管理を一手に担う彼も、他の部員達よりも遅くなることが多いのだ。彼はノートパソコンに向かい、熱心に何かを打ち込んでいる。
 テーブルを片付けている途中、ハルヒは花瓶の陰に置かれた白いレースのハンカチを見つけた。庶民であるハルヒにだって、そのハンカチが上質で高価なものだとすぐに分かる。柔らかな手触りはハンカチにするには惜しいほどだし、縁を飾るレースの細やかさは芸術に近い。おそらくは客である少女のうちの誰かの忘れ物だろう。
 ──あるいは忘れ物ではなく、わざと置いていったのかもしれない。これをきっかけにもう一度部に訪れることが出来るし、運がよければ部の誰かが届けてくれるかもしれない。そんなかわいらしい淡い期待を抱いているのかもしれない。
 ハルヒはお客である女の子達を思い浮かべた。
 ホスト部に来る少女達はみんなかわいらしい。環や双子の言動に、いちいち頬を染めては瞳をうるませている。あの少女達にもおそらく許婚がいて、この学院を卒業したら、親の決めた相手に嫁ぐ子がほとんどなのだろう。
 それなのに、何故こんなところに来ているのか。
 いや──だからこそ、と言うべきだろうか。
 たとえば環に夢中になっている少女達も、彼が本気で愛を囁いているとは思っていないだろう。でも、それでいいのだ。
 親の決めた相手に嫁ぐまでの間、ひとときのやさしい夢を。
 夢見たままの、砂糖菓子のような恋愛ごっこを。
(ここは、そのための箱庭)
 パソコンを操っていた鏡夜が、ひと段落したのかふとパソコンから顔を上げた。
「ハルヒ」
 ただ一言、ハルヒの名を呼ぶ。
 それだけで、彼女は彼の意を解してうなずいた。
「ああ、はい、わかりました。待っててください」
 手早くテーブルを片付けたあと奥へ消えて、しばらくして手にカップを持って戻ってくる。
「はい、どうぞ」
 ハルヒは鏡夜のテーブルにカップを置く。カップの中は、牛乳をたくさん入れたカフェオレだ。
「……おい」
 不機嫌そうに、鏡夜が言う。環や双子達なら一瞬で震え上がりそうなその声にもハルヒは動じない。
「ダメですよ。最近鏡夜先輩忙しくて、すこし無理してるでしょう。ブラックのコーヒーなんか飲んだら胃を壊します」
 ハルヒの言葉に鏡夜は大げさに溜息を付いたあと、カップに口をつけた。それをハルヒは微笑みながら見つめる。
 こんな穏やかな時間が、ハルヒは好きだった。双子や環は彼を魔王と言うけれど、本当はとても優しいひとだと知っている。
「ハルヒ」
 カップをテーブルに戻した鏡夜に手招きされて、近寄ってみれば腰を抱き寄せられて、くちづけられる。くちづけは深くなると共に、鏡夜の手が制服の中へもぐりこんでくる。驚いて身を引こうとしても、腰に回された腕がそれを許さない。
 激しいくちづけにハルヒが立っていられなくなると、鏡夜の膝の上に座らされた。横抱きにするように抱えられて、くちづけで口をふさがれたまま、片方の手は胸へ、片方の手は下肢へと伸びてくる。ちいさな椅子の上での不安定な行為に、ハルヒは鏡夜にしがみつく。
(こんな、学校で)
 服を乱され、胸元にきつくくちづけられながら、ハルヒはぼんやりと思った。
 もしも今、ここに誰か来たら。
 抜かりない彼のことだから、おそらくそんな心配がないと分かったうえでの行動なのだろうが、それでもわずかな可能性と恐怖はぬぐえない。
(もし、ばれたら──)
 鏡夜とのこの関係は、秘密だ。
 環や双子がうるさいとか、ハルヒが女であることがばれるとか、そんなことではない。ハルヒは、鏡夜の立場を危うくする。
 鏡夜が三男でありながら、鳳グループを継ごうとしていることは知っている。そのときに、ハルヒの存在は邪魔だ。野心家である彼の父は、何の後ろ盾もないハルヒを、決して受け入れはしないだろう。そしてそんなハルヒを、夢をあきらめてまで鏡夜が選ぶとは思えないし、彼女自身そんなことをして欲しくない。
 鏡夜との関係は、この学院にいるあいだ──このやさしい箱庭にいるあいだだけ、見ることが許された夢。
 ハルヒは、ホスト部へ通う少女達と同じだ。ひとときの夢を、見ているだけ。
 でも、それでいいのだ。別にかわいそうでもなんでもない。
 ただ、それだけのこと。
「俺に抱かれながら、他のことを考えるなんていい度胸だな」
 行為の最中、どこか上の空になっているハルヒを責めるように、胎内に入れた指を増やされる。すでにズボンと下着は脱がされて、上着も胸が丸見えになるくらい乱されている。それなのに、いまだ鏡夜はネクタイひとつゆるめていない。
「あっ……! 違いますっ……別に他のこと考えてたわけじゃ……」
 ハルヒが考えていたのは鏡夜のことだ。だがハルヒが抗議するより先にくちづけに遮られて、不安定な姿勢のまま貫かれる。
「んっ……!」
 椅子に座った鏡夜の膝の上で、後ろから抱きかかえられて、ゆすられる。足は床に着かず、他に体を支えるものもなくて、必死に鏡夜の腕にしがみつく。
 いつかこの腕は離れて、他の人を抱くのだろう。
 この熱は、他の誰かのものになるのだろう。
「ハルヒ……っ」
「んっ……きょうやせんぱいっ……!」
 体は熱に翻弄されながら、それでもハルヒの心はどこか冷たく冷えたままだった。


 To be continued.

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