箱庭の夢 2


 空には重く灰色の雲が広がっていた。まだ夕刻だというのに薄暗く、猫澤先輩が喜び、彼に似合いそうな雰囲気の天気だ。今は雨は降っていないが、いつ降り出してもおかしくはないだろう。
 今日は雨が降り出す前にと、ホスト部に来た少女達はいつもより早めに帰っていった。みんな車での送迎なのだろうが、それでも雨に降られるのは嫌なのだろう。
 客がいなくてはホスト部を営業している意味もない。今日はもうホスト部を店じまいすることにして、部員達も早々に帰り支度を始めていた。
 電車通学であるハルヒも、今日は残って後片付けをするのはやめて早く帰ろうと帰り支度をしていると、まわりに双子が寄ってきた。
「ハ〜ルヒ。今日も家にひとりなんだろ、うち来なよ」
「今夜は雷みたいだしね。ひとりじゃ怖いだろ?」
「え?」
 予報では、今夜は激しい雷雨になるだろうと言われていた。
 ハルヒが雷が苦手だということは、ホスト部員達はすでにみんな知っている。双子の申し出にハルヒが答えるより先に、それを聞きつけた環が走り寄ってくる。
「ハルヒ、ハルヒ、大丈夫かっ! 心配するな! お父さんがついててやるぞ!」
「僕達が先に誘ったんだからね、殿は引っ込んでてよ」
「なんだと!? 俺は父として娘の心配をだなあ」
「ハルちゃんうち来る〜? うちならケーキもあるよ〜」
「うちでもかまわない……」
 双子と環はいつものように言い合いをはじめ、その隙にちゃっかりとハニーとモリがハルヒの元へやってくる。まわりに集まって騒ぎ出す面々を、ハルヒは困ったように見つめた。
「もう、なんなんですか、皆さん」
 騒がしく言い合う環と双子を何とかなだめる。今までの経験上、彼らをほおっておくと騒ぎが大きくなる上に、ハルヒの意思を無視していろいろ決められてしまうのだ。
「そんなことしなくて大丈夫ですよ。今日は父が家にいますから」
「え、そうなの?」
「はい、ちょうどお店の定休日なんです」
「な〜んだ、そっか。じゃあ仕方ないか」
 さすがに蘭花が家にいるというのなら、ハルヒを無理に連れ出すわけにも押しかけるわけにもいかない。つまらなそうな顔をしつつも、みんなそれに納得してくれる。
 大騒ぎしたり、事を荒立てたりと、何かと騒がしい面々ではあるけれど、みんなハルヒを心配してくれてのことだと、ハルヒも十分分かっている。
「でも、心配してくれてありがとうございます。皆さんの気持ちはすごく嬉しいですよ」
 ハルヒは感謝の気持ちを込めて、みんなに微笑みかけた。その愛らしい笑顔に、双子と環は目を輝かせる。
「「「ハルヒ〜〜」」」
「ハルちゃん〜〜」
 環と双子とハニーが彼女に抱きつく。抱きつきはしないものの、モリも傍で頬を赤らめている。
「うわっ抱きつかないでくださいよ!」
 彼らの過剰なスキンシップはいつものことで、ハルヒがちょっと嫌がったところで離れる彼らではない。彼らはハルヒをかまいたくてかまいたくて仕方ないのだ。ホスト部でよく見られる、いつもの光景だ。
 それを、鏡夜はすこし離れたところからただじっと見つめていた。



 天気予報のとおりに、夜になる前には雨が降り出し、やがて雷も鳴り出した。窓の外が一瞬明るく光り、その数秒後、激しい音が降ってくる。
 ハルヒはひとりアパートで、ちいさなテーブルの下に毛布をかぶってもぐっていた。
 地震が来たわけでもないのにこんなところにいてもしょうがないとは分かっているのだが、布団をかぶるだけでは頼りない気がして、雷の日はここにいつも隠れていた。
(大丈夫大丈夫)
 貧乏性と言われればそれまでだが、ハルヒは見てもいないのにテレビをつけっぱなしにすることが出来ずにテレビは消してある。だから、聞こえてくるのは時計の秒針と、窓を叩く激しい雨音と、雷の音だけだ。
 雷の、鼓膜を破るような激しい音も怖いが、低く轟く音も怖い。ハルヒは音が聞こえないように、両手できつく耳をふさいだ。
 こうして耳をふさいで目を閉じて、しばらく我慢していればそのうち雷もやむ。いつもそうしてやり過ごしてきた。だから今日も大丈夫。
(ひとりでも、大丈夫)
 他に誰もいない家の中で、ハルヒは小さく体を縮めた。
『ひとりじゃ怖いだろ?』
『お父さんがついててやるぞ!』
『うちならケーキもあるよ〜』
 帰り際にかけられた言葉を思い出す。
 みんなハルヒを心配して、一緒にいると言ってくれた。それを断ったのは彼女自身だ。
 ハルヒは嘘をついた。今夜、父が家にいてくれると。
 蘭花は、店の仲間が旅行先で事故にあい緊急入院をしたとの知らせを受けて、その世話をするために数日前から家を空けていた。事故にあった仕事仲間は命に別状はないものの、足と腕を折る大怪我で、諸々の手続きや世話で帰るのはもうしばらく先になると、昨日電話をもらっていた。
 家には、ハルヒひとりきりだ。
 テーブルの下で、きつく耳をふさいでちいさく丸まる。
(だいじょうぶ)
 みんなの優しさは嬉しかったけれど、ひとりで大丈夫だ。ひとりでも、こうして我慢していれば、やがて雷も終わる。
 だから──。
「────ヒ、ハルヒ」
 不意に、自分を呼ぶ声が聞こえたような気がして、ハルヒは伏せていた顔を上げた。今まで耳をふさいでいたから気付かなかったが、雷と雨音の間に、ドアを叩く音が聞こえたような気がした。
 恐る恐る、ハルヒは耳をふさぐ腕をゆるめる。
「ハルヒ」
 玄関の扉を叩く音がする。
「ハルヒ、いるのは分かってるんだ、ここを開けろ」
 それは間違いなく、鏡夜の声だ。
(どうして)
 どうして彼がこんなところにいるのか。
 ハルヒは思わずテーブルの下からにじり出て、玄関の扉を見つめた。そのむこうに、鏡夜がいる。
「ハルヒ、開けろ。蘭花さんがいないことも分かってる」
 その言葉に、ハルヒは肩を震わせた。
 鏡夜と蘭花が、ハルヒを介さずに連絡を取り合っていることを忘れていた。ハルヒの嘘も、彼にはおそらく最初からばれていたのだ。
 また部屋が光り、数秒後に激しい音がする。ハルヒは急いで毛布をかぶってテーブルの下にもぐって耳をふさいだ。
「ハルヒ」
 繰り返されるノックも、呼びかける声も、雷と一緒に耳をふさぐ。玄関まで出て行かないのは、雷が怖いからではない。
 扉を開けて、鏡夜に抱きつけば、恐怖は半減するのかもしれない。
 ──でも、それが怖かった。
 鏡夜に抱きついて、それに慣れてしまったらどうすればいい? いつか鏡夜はいなくなる。そのとき、どうやって嵐の夜を越えればいい?
 野生の獣に、餌をやってはいけないと言う。餌をもらうことに慣れて、自分で餌をとることを忘れてしまったら、その獣はもうひとりでは生きてはいけなくなるから。一生飼うならいい。でも、ひとときの気まぐれなら、餌をやってはいけないのだ。それに慣れさせては──慣れては、いけないのだ。
 ひとりで、生きていけなくなってしまうから。
「帰って、ください。自分は大丈夫ですから」
 聞こえるか分からないけれど、テーブルの下にもぐったままハルヒは鏡夜に答える。
「ここを開けろ、ハルヒ」
 見えるはずなどないと分かっているのに、ハルヒは激しく首を振った。
 怖い。怖いのだ。鏡夜との関係はいつか終わる。だからそれに慣れてはいけない。慣れることが怖い。
 夜空を切り裂く光が落ちて、部屋を一瞬明るく照らす。ほぼ同時に、激しい音が落ちてくる。
 すべてを拒絶するように、ハルヒは耳をふさぎ目を閉じた。


 どうしても抗えない運命があるのだと、あのとき知った。
 どんなに強く望んでも、どんなに激しく願っても、叶えられないことがあると。
 だからもう、望むことはやめた。
 なんにも望まなければ、失うことも、傷付くこともないから。



 ────だからどうか、心の中をこじ開けないで。



 To be continued.

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