箱庭の夢 3


 翌日は、昨日の嵐が嘘のようないい天気だった。空気は澄み渡り、日差しがまぶしい。
 放課後、ハルヒが双子と共に第三音楽室に行けば、そこに鏡夜の姿はなかった。
「鏡夜先輩、今日風邪で休みだってー」
「鬼のカクランだ〜!」
 双子達がわざと大げさに騒ぎ出す。
(風邪)
 その言葉に、ハルヒは胸元を強く押さえた。
 鏡夜の風邪の原因を、ハルヒは知っている。昨夜の夜、風も雨も強かった。たとえ傘をさしていたとしても、雨にひどく濡れただろう。まして、ずっとハルヒの部屋の前にいた鏡夜は、きっとずぶ濡れだ。
 ハルヒは結局、最後まで扉を開けなかった。耳をふさいで目を閉じて、ずっとテーブルの下にもぐっていた。鏡夜がいつ帰ったのか、正確にはわからない。けれど、おそらくは長い間そこにいてくれたのだろう。
(自分のせいで)
 うつむいて、くちびるを噛み締める。鏡夜は大丈夫だろうか。
「……よし! 今日はみんなで鏡夜のお見舞いに行くぞ!!」
 環が片手を掲げて宣言する。
 今日はミーティングの日で、少女達はここには来ない。そして、ミーティングといっても、鏡夜がいなければはっきり言って進まないのだ。
「え、でも、急にみんなで押しかけたら迷惑なんじゃ……」
「何を言う! 病気で弱っているときこそ、仲間の顔を見て元気になりたいものだ! さあ、早速出発だ!! 皆の者、行くぞ!!」
「「おーっ!! 行こう行こう!!」」
 基本的に、環は言い出したら聞かない。それに面白がった双子が乗れば、誰も彼らを止められない。もし止められるとすれば鏡夜だけなのだが、今はその彼が不在だった。
 すぐに鏡夜のお見舞いに行くことが決定され、部員達は第三音楽室を出た。乗り気でないハルヒも、彼らに引きずられていく。
 さすが金持ちということで、それぞれベンツやロールスロイスに乗って鏡夜の家へ向けて出発する。ハルヒもハニーとモリの車に同乗させてもらった。
 学院から30分ほど車で走って着いた鳳家は、予想通り大きな邸だった。華美な装飾は少ないものの、重厚な造りの立派な邸だ。おそらく、一部屋の中に、ハルヒの住むアパートが丸ごと入ってしまうのだろう。
「大きな家ですね……」
「ん〜そうだねえ〜。でもタマちゃんちとかに比べたら小さいよ〜」
「そうなんですか」
 車の窓から邸を見上げて感嘆するハルヒに、のんびりとハニーが答える。
 こんな邸を小さいと言ってしまえるとは。桜蘭学院に入学してから、だいぶ金持ちの常識にも通じてきたと思っていたが、まだまだ甘かったようだ。
 普段、彼らと個人的に接している分には、ところどころ非常識な言動や世間一般とずれた言動があると思うくらいで、特に壁や差異を感じることはないのだけれど、こういうものを見せ付けられるとどうしても感じてしまう。彼らは、ハルヒとは住む世界の違う人間なのだと。
(別に、最初から分かっていたことだけど)
 ハルヒは大学までの高額な奨学金を出してくれるという点に惹かれて、桜蘭の特待生枠を受験した。奨学金を出してくれる学校や機関は数多くあるけれど、大抵は学費をまかなうくらいで、それ以外にアルバイトなどをしなくてはやっていけない。けれど桜蘭は、通常の3倍近い額の奨学金を出してくれる。アルバイトなどをせず、ひたすら勉学に打ち込めるだけの額だ。それだけの額が出せるのも、ひとえに須王の財力なのだろう。
 そしてそんな桜蘭学院自体も、大金持ちの子息ばかりが通う学校なのだ。庶民など自分ひとりで、まわりにいるのは住む世界の違うお金持ちばかりだと、最初から分かっていた。
 ただ──時折それを忘れてしまいそうになるのだ。
 ホスト部のみんなやクラスメイト達が、あまりにもハルヒに親しくしてくれるから。普通の先輩や友達のように笑いあったりおしゃべりをしているうちに忘れてしまいそうになるのだ。
(鏡夜先輩、も)
 けれど忘れてはいけないのだ。おかしな勘違いなどしないように。
 ホスト部員達を乗せた車は、鳳の敷地内に入っていく。環たちはすでに何度かこの邸に訪れたことがあるようで、すぐに中に入れてくれた。玄関にずらりと並んだ使用人達に出迎えられ、鏡夜付きの使用人である橘に部屋まで案内される。
 ハルヒは鏡夜の家に来るのも部屋に来るのもはじめてだ。無機質というよりは機能的で無駄のない部屋は、鏡夜のイメージにぴったりだ。
 環たちはハルヒが止める間もなく、遠慮することもなく寝室に入っていく。
「鏡夜、大丈夫か〜!!」
「「お見舞いに来たよ〜」」
「キョウちゃん大丈夫〜? ケーキ買ってきたよ〜」
 突然現れた騒々しい闖入者たちに、鏡夜がベッドの上に身を起こす。
「……おまえたち……」
 今まで寝ていたせいか髪がすこし乱れているものの、顔色も悪くないし、そんなに具合は悪くなさそうだ。そのことにハルヒは安心する。
「おお、思ったより元気そうではないか! これなら明日には全快だな!」
「な〜んだ、鏡夜先輩が休むなんていうから、どれほどすごい風邪かと思ったら、たいしたことないんだね」
「キョウちゃんキョウちゃん、ケーキいちごのとチョコのとどっちがいい〜?」
 まわりで騒ぐ面々に、鏡夜の機嫌が目に見えて下がっていく。背後に黒いオーラを醸し出させながら、環たちをにらみつける。
「……おまえらは俺を見舞いに来たのか? 余計具合悪くさせに来たのか?」
 その恐ろしさに思わず部員達が顔を青くして一歩下がる。
 それに対し、臆することもなくハルヒは鏡夜の傍に近寄った。
「思ったより具合悪くなさそうで、安心しました」
「ああ、今朝方すこし微熱があっただけだ。俺は大丈夫だと言ったんだが、橘達がどうしても大事を取って休めと言ってな」
「あの……、昨日は……」
 昨日のことを謝ろうとハルヒが口を開きかけたとき軽いノックの音がして、みんなの視線が、一斉に扉に集まる。明らかに使用人とは違う、スーツ姿で髭を生やした紳士が部屋に入ってきた。
「やあ、須王くん、久しぶりだね。鏡夜の見舞いに来てくれたのかい? いい友人を持てて、鏡夜はしあわせ者だな」
 彼は部屋に入るとすぐに環のところへ来てその手を取った。そのままいろいろ環に話しかけ、環もそれに答えている。
「あれ、鏡夜先輩のお父さんだよ」
 馨がそっとハルヒに耳打ちしてくれる。
「あの人が……」
 会うのははじめてだが、話には何度か聞いていた。
 たまたま家に戻ったときに、息子の友人達が来ていると聞いて、挨拶に来たのだろう。
「是非父君によろしく伝えてくれたまえ」
 鏡夜の父は、親しげな様子で環の肩を叩く。環とは一通り話が終わったのか、今度は双子の傍に来て話しかけてくる。
「常陸院くん、先日は君達のおばあさまの華道の展覧会に行かせてもらったよ」
「そうですか。ありがとうございます」
 明らかに興味なさそうな顔をしている光に代わって、馨が表面上は丁寧に答える。それからまたしばらく双子達に話しかけたあと、今度はハニーとモリにも声をかける。
 最後に鏡夜の父は、ハルヒをちらりと横目で見た。
「君が……特待生として桜蘭学院に通っているという少年か」
 ハルヒの頭の先から爪先にまで、無遠慮に視線を走らせる。
 明らかに、値踏みしている目だった。
 今までにも何度か庶民であるハルヒを珍しがってじろじろと見られたことはあるけれど、それとは明らかに違った。じろじろと見られるときは、大抵ハルヒの人柄を見極めようとされているときだった。けれど鏡夜の父は、ハルヒの人柄などどうでもいいのだ。鳳家にとって役に立つモノか、害になるモノか、ただそれだけを見ているのだ。
 その頭の中で、どんな計算がはじき出されたのかなど分かるはずもない。しかし、彼はハルヒを『価値はない、けれど害もない』と判断したのだろう。価値のないものにそれ以上興味もないらしく、鏡夜の父はハルヒに話しかけることもなく彼女から離れた。
「すまないね。私はもう戻らねばならないが、ゆっくりしていってくれ」
 まだ仕事があるのか、早々に鏡夜の父は部屋を出て行った。
「ごめんね、ハルヒ」
 小さな声で、馨に謝られる。
「? なにが?」
「ハルヒを元気付けようと思ったんだけど、逆にやな思いさせちゃったね」
 それが、鏡夜の見舞いに来たことと、さっきの鏡夜の父親のことだと気がついた。
「別に気にしてないよ。鏡夜先輩も元気で安心したし、来てよかったよ」
 鏡夜の父親の態度など、気にしていない。そんなことは、最初から分かっていたことだ。会うのは初めてだったけれど、そういう人だと話は聞いていたし、会えばそうなるだろうと予想していた。
 そしてハルヒが何の後ろ盾もない庶民であるというのは紛れもない事実だ。だから、哀しむことでもなんでもない。
 ただ、それだけのこと。
 部屋の主である鏡夜を放っておいて、部員達はそれぞれ好き勝手に部屋を物色したりケーキを食べたりする。鏡夜ももうあきらめているのか、あきれた顔をしつつも何も言わない。彼らの好きにさせている。
 ケーキも食べ終わり、一通り騒いで満足したのか、そろそろ帰ろうかということになった。  ハルヒは最後にもういちど鏡夜に挨拶するために、彼の寝室をノックした。
「鏡夜先輩」
「ハルヒ」
「もう、帰りますね」
「ハルヒ、眠るまででいいから、傍にいてくれ」
 布団の中からその手を差し出される。
 鏡夜がそんなことを言うなんて、すこし意外な気がした。けれど同時に、ハルヒは幼いころ自分が風邪をひいたときのことを思い出した。
 ハルヒが熱を出したとき、父は仕事を休んで一晩中傍にいてくれた。ひとりでも大丈夫だと強がりを言っていたけれど、本当はとても嬉しかった。鏡夜も、心細く思っているのだろうか。
 ハルヒは鏡夜の傍らへ寄って、差し出されたその手を握る。低血圧だという彼の指先はすこし冷たい。手を握ると安心したのか、鏡夜はわずかに微笑んで、目を閉じた。
(眠るまで)
 熱はもうないものの、やはり風邪で体力が落ちていたのかもしれない。鏡夜は目を閉じて、すぐに眠りに落ちる。穏やかな寝息が漏れてくる。
 それでもその手を振り解くことができずに、しばらくハルヒはその手を握り続けていた。


 To be continued.

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