箱庭の夢 4


 学校を休んだ翌日には鏡夜は学校へ来るようになり、ホスト部にも復帰した。
 あの嵐の夜のことを、彼は何も言わない。ハルヒも謝るタイミングを逃して、そのままそのことに触れられずにいた。表面上は何も変わらない、いつもどおりの日々。
 その次の休日に、ハルヒはお見舞いのお礼にと鏡夜に連れ出された。他のホスト部員はいない。鏡夜とふたりきりだ。連れて行かれたのは有名ホテルの中に入っている高級そうな寿司屋だ。
「フランス料理に連れて行ったところで、おまえはマナーなんか分からないだろうからな。ここなら難しいマナーはいらないし、おまえも大トロが食えていいだろう?」
「はあ……」
 当然皿が回ることもなく、カウンターに座ると目の前で職人が新鮮なネタを握ってくれる。店内のどこを見ても値段など書いていなくて、それが恐ろしい。きっとハルヒが知る寿司とは桁が一つ違うのだろう。だがそれを口にすればまた鏡夜に何を言われるか分からないので黙っておく。わざわざ自分から藪を突付くこともないだろう。
 当然と言うべきか、出された大トロはとろけるようにおいしかった。大トロを頬張るハルヒを、鏡夜は横で楽しそうに見つめている。
「……なんですか?」
「いや、しあわせそうな顔をしていると思って。おまえは本当に食わせ甲斐があるよ」
 正直、そんなふうに見つめられていては食べにくい。けれど鏡夜がひどく優しい顔で笑っているから、見るなとは言えなくなってしまう。
 食べ終わったあと、当然のように腕をとられて階上へ向かう。連れて行かれたのは、ホテルの広い一室だ。さすがにスイートルームではないようだが、それでも十分広い。最上階に近い部屋は、壁一面が窓になっていて、外の景色が見える。落ち着いたデザインの広い室内は、開放感を演出するためか壁で区切られておらず、ベッドのほかにソファセットやテーブルセットが置かれている。
「ハルヒ、何か飲むか?」
「あ、ありがとうございます」
 備え付けられている簡易キッチンの冷蔵庫から、飲み物を用意してソファに腰を落ち着ける。大きなソファは硬すぎずやわらかすぎず、最高の座り心地だ。
「すごいところですね」
「そうでもない。ここはうちの系列のホテルだが、環のところのロワグランホテルなどに比べれば小さいもんだ。まあゆくゆくはホテル事業もあれくらいの規模にしていきたいとは思っているが、ホテル事業というのは想像以上に資本が必要だからな。着手するにしてもかなり先のことになるだろうな」
 さらりと告げられる言葉に、思わずハルヒは鏡夜を見つめてしまった。
「なんだ?」
「いいえ。鏡夜先輩はすごいなと思っただけです」
 ここが鳳系列のホテルだということにも驚いたが、それだけではない。鏡夜がいくつかの鳳の事業にすでに携わっていることも知っていたが、彼はさらに先のことまで考えているらしい。
「さすが、鳳家を継ぐつもりのだけのことはありますね」
 ハルヒの言葉に、鏡夜はすこし自嘲するように笑った。
「これでも俺は昔、鳳を継ぐ気なんてなかった──というより継げるとは思っていなかったんだ。兄達より優秀である自信はあったが、三男である俺では家を継ぐことはないと諦めていたんだ」
「それは……意外です」
 今の鏡夜からすると、そんなふうに謙虚に考えるなんて考えられない。もっとずっと昔から野心家だったのかと思っていた。
「そうしたら環に言われたんだ。何もしないで諦めるのかと。その一言で目が覚めたよ。そして、絶対に手に入れてみせると決めたんだ。俺にはそれだけの力がある。なんで諦めなければいけないんだ」
 眼鏡の奥の鏡夜の瞳は鋭く光っている。獲物を狙う、狡猾な肉食獣さながらに。
 惹かれたのは、多分、その貪欲さ。
 すべてを諦めることに慣れたハルヒと違って、鏡夜はすべてを手に入れようとしていた。それがどんなに困難でも、いつか挫けるかもしれないとしても、決して諦めないその心の強さに惹かれた。
 もしもハルヒと夢を天秤にかけて、ハルヒを取るようなひとだったならきっと好きにはならなかった。
「……鏡夜先輩なら、きっと出来ますよ」
「当たり前だ」
 それが簡単なことではないと、ハルヒにも分かっている。それでもきっと鏡夜はやってみせるだろう。手に入れて見せるだろう。それだけの力のある人だ。きっと今もそのための準備を着々と進めているのだろう。
「──ハルヒ、もしも俺に婚約者が出来たらどうする?」
「え?」
 突然出された話題に、ハルヒはちいさく目を見開く。もしかして今日連れ出されたのは、その話をするためだったのだろうか。ハルヒが鏡夜の顔を見つめると、彼はすこし困ったように笑った。
「たとえ話だよ」
「はあ……」
 今現在、鏡夜に許婚のような存在がいないということは分かっている。しかしこれから先、そういう存在が出来ないとは限らない。いや、出来ないほうがおかしいのだ。
 鏡夜が鳳グループを継ぐためには、兄二人を蹴落とさなければならない。そのためにいつか彼はどこかの令嬢とお見合いでもして、その地位をより強固なものにするだろう。
 最初から分かっていたことだ。そのことを、ハルヒは哀しんだことはない。庶民でたまたま特待生として桜蘭学院に入った自分と、家柄がよくお金持ちである彼らが別世界の人間だということは、ちゃんと分かっている。
 ハルヒにはハルヒの夢があるように、鏡夜には鏡夜の夢がある。そしてそれは重なり合うことはない。
 ただ、それだけのこと。
「素敵な女性だと、いいですね」
 ハルヒは笑ってみせた。
 ちゃんとうまく笑えていただろうか。
 鏡夜はそんなハルヒの顔をじっと見つめたあと、大きく溜息をついた。
「おまえの執着心のなさは、怯えの裏返しなんだろうな」
「鏡夜先輩? 何言って……」
「本人が意識していようと意識していまいと、幼いころの親の死は、大きな傷になる。母親の死によって、おまえは大切な人を失うという痛みを経験している。だからもう、その痛みを味あわないように、誰にも執着しないんだ」
「……」
「おまえが外見や性別にこだわらないというのも、そこから来ているんだろうな。普通の人間は外見にこだわることで、他人によく見られたい、他人に好意を持ってもらいたい、という願望を持つ。おまえは逆だ。自分が他人に関心を持たないのと同様に、他人に自分に対する関心を持って欲しくないんだ」
 眼鏡越しの鏡夜の瞳が、ハルヒを射抜く。痛みを感じて、ハルヒは胸を押さえた。
「おまえは他人に対して何ひとつ期待していない。期待して、裏切られるのが怖いからだ。笑顔で他人を拒絶しているんだ」
 鏡夜の言葉のひとつひとつがハルヒを突き刺す。否定したいのに、何も言い返せない。そのとおりだからだ。
 ハルヒが意識していようと意識していまいと、鏡夜の言うとおりだ。鏡夜には、全部見抜かれていた。
 母が亡くなってから、ハルヒは他者に関心を持つのをやめた。怖いからだ。いつか失うことが。それが死であっても別離であっても裏切りであっても、別れは常に痛みを伴う。大切な人が増えれば増えるだけ、その痛みを感じるリスクは高まる。だから──もうこれ以上、大切な人などいらないのだ。
 胸元を押さえちいさく肩を震わせるハルヒに、鏡夜はもう一度大きく溜息をついた。
「ハルヒ。賭けをしようか」
「賭け……ですか?」
 突然の鏡夜の申し出に、ハルヒは顔を上げて首をかしげた。急に飛んだ話についていけない。今までの話とのつながりが分からない。しかし鏡夜はかまわずに話を続けた。
「今度、雷が鳴ったら俺を呼べ」
「は?」
「おまえが俺を呼んだら俺の勝ち、おまえが俺を呼ばなかったらおまえの勝ち」
「何ですかそれは」
 訳の分からない賭けだ。はっきり言って意味が分からない。何故そんなことを賭けの対象にするのか。
「じゃあ何を賭けるんですか?」
「そうだな。俺が勝ったらおまえをもらう。おまえが勝ったら俺をやるよ」
「それ……おかしくないですか?」
 それでは勝っても負けても同じことのような気がする。第一もらうとかやるとか、具体的には何をするのか分からない。理論的な鏡夜にしては、明らかにおかしい。
「おかしくなんかないさ」
 ハルヒが何か答えるよりも早くキスをされる。くちづけはすぐに深いものになって、ハルヒの息を奪う。
「ちょっ……鏡夜先輩、まだ話……」
 賭けについての話がまだ終わっていない。というよりも、わざとうやむやにされようとしているようだ。それに気付いてハルヒは抗おうとするが、鏡夜が聞き入れる様子はない。ハルヒを抱えて、ベッドへと連れて行く。
「鏡夜せんぱっ……」
「ほら、もう黙れ」
 押し倒されて、服を剥がれていく。鏡夜の長い指に触れられるうちに体は熱くなって、思考が奪われる。目の前にいる鏡夜のこと以外、他に何も考えられなくなる。賭けの話も何もかも、うやむやなまま。
 それもすべて鏡夜の策略だったとハルヒが気付くのは、ずっとあとになってからだった。


 To be continued.

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