箱庭の夢 5


 学校帰りの電車の中で、ハルヒは外を流れる景色を見ながら鏡夜のことを考えていた。あれから何事もない日々が続いている。あるいは、何もないふりをしている日々だ。
 鏡夜はハルヒの胸のうちを見透かしているのに、それ以上その話には触れない。ハルヒもそれに甘えて、何もなかったことにしている。それに安心しているのかそうでないのか、ハルヒ自身にも分からなかった。
「ただいま」
「おかえり〜、ハルヒ」
 ハルヒがアパートに帰るといつもは誰もいないはずなのに、今日は中から返事が聞こえた。
「お父さん、いたんだ」
「んーもう行くけどね」
 蘭花はドレッサーに向かって化粧をしている。これから出勤なのだ。
 ハルヒがホスト部に入部してからは、ハルヒが部活を終えて帰る頃には蘭花はすでに仕事に出かけており、夕方に顔を合わせることが少なくなっていた。もちろんその分、朝や休日に一緒にすごしているのだが、こうして夕方に会うのは久しぶりだった。
「ハルヒ、今夜また雷になりそうだけど、あんた大丈夫?」
 化粧を終えた蘭花が、コートを羽織りながら尋ねる。今夜もまた雷雨になるとの予報が出ていた。
「大丈夫だよ。心配しないで」
 ハルヒは蘭花に笑ってみせる。すると途端に蘭花にきつく抱きつかれた。
「んもーっ! 我が娘ながらなんてカワイイのかしら! 笑った顔なんて琴子にそっくり!!」
「はいはい、こんなことしていると仕事に遅れるよ」
 ぎゅうぎゅうと抱きついてくる父親を冷静にあしらう。こんなこともいつものことだ。
 しかし、いつもなら一通り騒いだらすぐにハルヒを離してくれるのに、今日の蘭花は彼女を抱きしめたまま動きを止めた。抱きしめられたまま、そっと頭を撫でられる。
「お父さん……?」
「……琴子がいなくなってから、ワタシはあんたに救われてきたけど、あんたはどうなのかしらね」
 頭を撫でていた蘭花の手は、そっとハルヒの頬を包む。
「ハルヒ。あんたはもっとわがまま言っていいのよ。嫌なものは嫌って言えばいいし、欲しいものは欲しいって言っていいのよ」
 その言葉に、ハルヒはちいさく体をこわばらせた。どうして父は急にそんなことを言うのか。蘭花も何か気付いているのだろうか。母が死んでから、ずっとハルヒの心の奥底にある想いを。
「何、お父さん急に」
 ハルヒが内心の動揺を隠しながら恐る恐る尋ねれば、ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜるように撫でられる。
「んー? ハルヒがあんまりかわいいから、お土産買ってきてあげたくなっただけー。何がいい? なんでもわがまま言っていいわよ。もーほんとハルヒったらかわいいんだから!」
 さっきまでのちょっとシリアスな様子はどこへ行ったのか、今はもういつもの蘭花だ。父が何か気付いているのではと思ったけれど、気を回しすぎのようだ。
「あらやだ! もうこんな時間!?」
 壁にかけられた時計を見て、蘭花が慌てだす。いつもの出勤時間はとっくに過ぎていた。
「じゃあハルヒ、行ってくるわね。戸締りはしっかりね」
「いってらっしゃい、気をつけてね」
 あわただしく、蘭花は出かけていった。
 アパートには、いつものようにハルヒひとりになる。遠くから、雷雲が近づいていた。



 空を切り裂く雷が落ちてくる。真っ暗な部屋の中を一瞬照らし出し、激しい音が轟く。
 雷が変電所にでも落ちたのか、しばらく前からこの一帯が停電していた。復旧する様子はまだない。ハルヒはまた毛布をかぶってテーブルの下に隠れていた。
(大丈夫、大丈夫)
 いつもの呪文を繰り返す。
 停電しても暗闇が怖いわけではないし、今日の雷はこのあいだのほどひどくない。
 だから──。
 雷の激しい音が響いて、ハルヒは体を震わせた。きつく耳をふさぐ。このあいだほどひどくはないものの、だいぶ近いようだ。響く音が大きい。
『ハルヒ、賭けをしようか』
 鏡夜の言葉を思い出す。
『次に雷が鳴ったら、俺を呼べ』
 このあいだの嵐のあと言われた言葉。理論的な鏡夜にしては、ひどくおかしな言葉だ。賭けと言いながら、それがまともに成立していない。結局うやむやなままで、なにがなんだか訳も分からない。どうして鏡夜は、あんなことを言い出したのだろう。
 ハルヒはテーブルの下にもぐったまま、毛布の隙間から玄関を見た。
(鏡夜、先輩)
 耳をすませても、今日は扉を叩く音は聞こえない。雷のうなるような音が聞こえるだけだ。 ハルヒは胸を強く押さえた。
 もし鏡夜が来たならきっと怖くてたまらないのに、彼が来てくれないことがこんなにも苦しいのはどうしてなのだろう。
 暗い部屋が一瞬明るく照らし出されて、ハルヒは毛布をまた頭からかぶって耳をふさいだ。隙間なんてないように視界を閉ざす。
 賭けなんてどうでもいい。勝ちも負けも、そもそも意味も分からない。ハルヒをあげるとか、鏡夜をやるとか、そんなことはきっと無理なのに。桜蘭学院にいるあいだはいいだろう。でもそこから先、鏡夜が鳳家を継ぐためにはハルヒは邪魔になる。それは、しかたのないことなのだ。
 夢とハルヒを天秤にかけて、ハルヒを選ぶような人ならきっと好きになっていなかった。
(でも、ほんとうは)
 じわりと視界が滲む。
 どうしても叶わない願いがあると知っている。だから抗えないものに手を伸ばすのはやめた。
 自分で出来る努力はする。弁護士になりたいという夢のためには精一杯頑張る。望むのは、自分で出来ることだけ。誰かに何か期待することはやめた。
 鏡夜にとってやがてハルヒが邪魔になると分かっているのに。いつか彼は離れていくと分かっているのに。

 それでも、欲しいと思ってしまった。

 繰り返し叩きつけるような雷の音に、きつく耳をふさいでちいさく丸まる。
『次に雷が鳴ったら』
 鏡夜の言葉がハルヒの胸に浮かぶ。
(名前、を)
 呼んでしまおうか。きっと届きはしないから。誰にも聞こえはしないから。この雷が打ち消してくれるから。
 それくらいなら、許されるだろうか。
「……鏡夜、先輩」
 耳をふさいだまま、ちいさく呟いてみる。
「鏡夜先輩、鏡夜先輩」
 誰もいない部屋に、ハルヒの声だけが響く。

「なんだ、ハルヒ」

 不意に聞こえた声に、ハルヒは体を震わせた。
 今のは幻聴でも気のせいでもない。はっきりと聞こえた。ハルヒは驚いてテーブルの下から這い出て、恐る恐る見上げる。
「なんで……」
 呆然と呟く。扉越しでもなんでもなく、そこに鏡夜がいた。
「合鍵くらい、持ってるさ」
 鏡夜はハルヒに手に持った鈍く光るちいさな銀色の鍵を見せる。おそらくは、蘭花から鏡夜の手に渡ったのだろう。
「賭けは、俺の勝ちだな」
 暗いせいではっきり表情は見えないけれど、きっと彼は不敵に笑っているのだろう。いつだって、負ける勝負なんかしないくせに。
 また雷が落ちて一瞬部屋が光ったあと、激しい音がする。大きく肩を震わせるハルヒを、鏡夜が抱きしめた。
「鏡夜、先輩」
 その腕から逃れようとハルヒはちいさくもがく。けれど鏡夜の腕は決してゆるまず、きつく彼女を抱きしめる。
「賭けは俺の勝ちなんだから、おとなしくしていろ」
「でも」
 雷が鳴る。鼓膜を破りそうな激しい音に身を震わせるけれど、優しく抱きしめられると恐怖が消えていくような気がした。
「鏡夜先輩、どうして」
 鏡夜は分かっているだろう。彼が鳳家を継ぐのに、ハルヒが邪魔になることなど。それなのに、どうして。
「バカだな、ハルヒ。言っただろう、俺はあきらめるのをやめたんだって」
 迷いのない声が、ハルヒの耳元に落とされる。
 惹かれたのは、その貪欲さ。それがどんなに困難でも、いつか挫けるかもしれないとしても、決して諦めないその心の強さに惹かれたのだ。
「先輩、服、濡れてる」
 鏡夜の服は雨に濡れている。今日はこのあいだほど雨はひどくないが、服はしっとりと水分を含んでいた。このままでは先日のように風邪をひいてしまうだろう。
「そうだな、脱がせてくれるか?」
 鏡夜の言葉に、たどたどしくハルヒは鏡夜の服を脱がせていく。同時に、鏡夜もハルヒの寝巻きを脱がせる。濡れてすこし重くなった服は脱がしにくい。それ以前に他人の服を脱がせるなんてしたことがないから勝手が分からない。
 そういえば、こうして自分から行動を起こすのははじめてだと、ハルヒは不意に気付いた。いつも鏡夜がすることに身を任せるばかりで、ハルヒから手を伸ばしたことはなかった。そのことに彼は気付いているのだろうか。
 ハルヒが顔を上げれば、鏡夜がまっすぐにこちらを見ていた。暗い中でも、ぼんやりと鏡夜の顔が見える。
 怯えながら、鏡夜の背に腕を伸ばす。鏡夜は強く抱きしめ返してくれる。苦しくなるくらいきつく抱きつきながら、キスをした。まるで噛み付くみたいにくちびるを触れ合わせる。隙間なんてなくすように、体を押し付ける。離れたくないと、その想いばかりが先走って、うまく動けない。鏡夜の手が背中から回って、尻越しに体の中心に触れてくる。
「あ……」
 ぴたりと体を寄り添わせたまま、指が内部を探る。まだろくに触れられてもいなかったのに、ハルヒの秘部はひどく濡れて、鏡夜の指を簡単に飲み込む。それがひどく恥ずかしいのに、もっと触れてほしくて、鏡夜が動きやすいようにとハルヒは自分から足を開いた。
 布団も敷かずに畳の上に横たえるのは痛いだろうと思ったのか、鏡夜は座ったまま、膝の上に向き合うようにハルヒを乗せたまま触れてくる。
 中を探る指はそのままに、くちびるは顎、喉、鎖骨と辿り、胸元へ落とされる。なかば膝立ちになるような体制のまま、ハルヒは鏡夜の頭を抱きしめた。触れられることは嫌いではない。むしろ好きだと思う。けれど今、それがもどかしかった。そんなふうに触れられるよりも、もっと鏡夜を感じたい。指やくちびるではなく、鏡夜自身を。
「鏡夜先輩……、もう……平気、ですから……」
 ハルヒは腕を伸ばして、鏡夜のものに触れた。軽く握って、ゆるくこする。それはすでに十分熱い。
「ハルヒ」
 鏡夜はハルヒの行動に、すこし驚いているようだった。今まで彼女から求めたことなど一度もなかった。
 片手で鏡夜の肉棒を軽く固定したし、もう片方の手を鏡夜の肩に置いて体を支え、ハルヒはその上にゆっくりと腰を落としていく。鏡夜の熱が、自分の肉に触れる。けれど、今までそんなことをしたことがなく、うまく中に入っていかない。場所が悪いのか、角度が悪いのか、そんなことさえハルヒには判断もつかない。
「ん……」
 それでも早くつながりたくて無理矢理腰を落とそうとすると、鏡夜にとめられた。
「こら、無理するな」
「だって……」
「大丈夫だ。ほら」
 ハルヒの腰を抱えるようにして、鏡夜がすこし位置をずらす。そのまま導かれるようにそっと腰を落とせば、圧迫感はあるものの、ゆっくりと鏡夜のものが中に入ってくる。その熱さに足が震えて力が抜ける。支えを失ってハルヒの体は下に沈んで、鏡夜を奥深くまで飲み込む。それでもさらにもっと深く飲み込もうと、ハルヒは腰を揺らす。
 もっともっと深くつながっていたい。体だけなら、こんなにも簡単なのに。
「ハルヒ」
 鏡夜の指が、そっとハルヒの頬を撫でる。
 いつのまにかハルヒは泣いていた。ぼろぼろと、自分の目から水があふれている。
 きっとこの体は壊れてしまったのだ。こんな雷の日に、鏡夜が抱きしめるから。視覚も聴覚も、壊れてまともに働いていない。まだ雷は鳴っているはずなのに、もう鏡夜しか見えないし、鏡夜の声しか聞こえない。そうだ、壊れてしまったのだ。鏡夜が抱きしめるから。
 壊れて、心の奥底に閉じ込めたはずのものさえ、あふれ出す。
「……っ、鏡夜先輩が、欲しい……っ」
 ずっと言えずにいた言葉がこぼれた。
「行かないで、ずっと……傍にいて欲しいっ……」
 こんなことを言えば、鏡夜を困らせるだけだと分かっているのに、とめられなかった。声をあげて子供のように泣きながら、目の前にある鏡夜の体にすがりついた。
 そんなハルヒを、鏡夜は優しく、けれど強く抱きしめてくれる。
「ああ。俺はずっとハルヒの傍にいる」
 誓うように、やさしくまぶたにくちづけられる。
 暗い部屋の中で、一瞬の光りが鏡夜の顔を照らし出す。
 雷は恐ろしいはずなのに、鏡夜の顔がとてもとても優しかったから、それをきれいだと思った。


 それが箱庭の夢だと知っている。
 それでも、欲しいと思ってしまった。

 ────だから、どうか。


 そばに、いて。



 To be continued.

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